りょーかいりょーかい、とヒライさんはサンプルを持ってまた奥に引っ込んでしまう。
私の一番の悪癖は、きっとこの簡単に流されてしまうところだろう。いつか高級な空気清浄機とか浄水器を買わされたり、意味もなく保険に入ったりしてしまうんじゃなかろうかと思うと、私は私が恐ろしくなった。
私にとって髪を染めることは、清水の舞台から飛び降りる……とまではいかなくとも、バンジージャンプくらい勇気がいることなのだ。ヒライさんに勧められなければ、絶対に自分から「染めたい」なんて言葉は出ないと言い切れる。
ヒライさんが戻ってきて、ひし形のフォルムになるように髪が切られていく。これも勿論ヒライさんに提案されたことで、なんでもひし形にすると小顔に見えるとかで、顔が丸い私には嬉しいことだった。
ある程度切ったら、先に髪を染めて、最後に形を整えるらしい。
この後の予定や髪の話。ヒライさんが振ってくれる話にぽつぽつと返事をしていると、あっという間に髪が肩につかないくらいまで短くなっていた。
「これくらいでどう? 乾かすともう少し短くなるけど」
「あ、はい。大丈夫です。イイ感じです」
「うし、じゃあ今度は染めていくねー」
私の緊張なんて知らないヒライさんは、まるでちょっとコンビニに行ってくるくらいの軽いノリで私の耳の辺りの髪の毛を一束ピンで留めていく。
匂いのキツイ薬剤がその一束に塗られて、頭皮が少しヒンヤリした気がした。
薬剤を浸透させて、シャンプーして、髪を乾かして……とそれからいくつかの工程を経る。ドライヤー中に何事か話しかけられたけれど、全く何と言っているのか分からず愛想笑いで返す、というやり取りを何度か繰り返した。
「あ、めっちゃいい感じ! ほら、ここ」
と、乾かしてサラサラになった横髪を耳に掛けられ、インナーカラーが覗いた。
その時、私の胸がドキリと音を立てたのが分かった。
「──かわいい」
無意識に口から零れた言葉だった。私は鏡の中の私に釘付けになったのだ。
傍に立っているヒライさんが、微笑みながら「めっちゃいい!」と繰り返している。
落ち着いたブラウンが一束だけ。たったそれだけの変化なのに、まるでいつもの私とは印象が違った。
「よし、この可愛い感じを更に可愛くしていくから!」
ヒライさんの声に、私はハッとして鏡から視線を外した。
顔に熱が集中するのを感じた。自分で自分に見惚れていることに気が付いて、恥ずかしかったのだ。
それから仕上げが終わるまで、私はチラチラと鏡を見ては自分の姿を確認した。普通にしていると、久しぶりに見るショートカットの私。だけど横髪を耳に掛けると、ブラウンの髪束が見えてグッと大人っぽさが増す。ほんの少しの違いなのに、これだけ違って見えるなんて。
「軽くセットしてもいい?」
「はい、お願いします」
どうしてか、返事はいつもより滑らかに返せた。
ヒライさんはヘアアイロンを取り出して、実際にやって見せながらセットの仕方を教えてくれた。
最後に少しきつめの香水のような匂いのするワックスを付けられ、ふんわりとした髪型が出来上がる。まるでカットモデルの人みたいだ、なんて柄にもなく思う。
「かんせーい! お疲れ様っしたー」
「ありがとうございました、あの、本当に」
「いえいえとんでもない! めっちゃいいよ、本当」
可愛くしてもらったね、とユミさんやタダさんにまで髪型を褒められて、褒められ慣れてない私は吃りながら何度もお礼を言うしかない。実際、ヒライさんにはとても可愛くしてもらったので、「いえいえ」と否定するのは違う気がした。
お会計を済ませて、ヒライさんに見送られながらバス停を目指す。
周りに誰もいないことを確認すると、私は手鏡をポーチから取り出して自分の髪型を確認した。小さな鏡の中の自分の頬が勝手に緩む。
ヒライさん、いい人だった。
……一つ前のバス停で降りて、ドラックストアかスーパーに寄ろうかな。ほら、ワックスなんて持ってないし。
自分に言い訳して、私は軽くなった心と髪で、バス停までの道を弾んで歩いた。