鏡に映った胸元まで伸びた黒髪に目が留まる。
現実の自分を見下ろして、髪に触れた。パサパサとした感触に、よく見ずとも分かるほどたくさんある枝毛。
頭に過る「美容室」の文字に、私は大きくため息を吐いた。
休日でも町のコミュニティバスは空席ばかりだ。ポツポツと座っているのはお年寄りや大荷物を抱えたマダムだけで、私は一番後ろの端の席に腰を下ろした。
バスで揺られながら、頭の中でシミュレーションする。
『今日はカットのご予約だけど、どういう感じにする?』
『この後予定とかあるの?』
『いつもどんな感じでセットしてる?』
新しい美容室に行く勇気がなく、生まれてこの方同じ美容室に通い続けていても毎度聞かれている質問はこんなものだろうか。
人と話すことが苦手な私にとって、美容室に行くことはかなりハードルが高い。昔から人見知りで、小中高と教室の隅で数少ない友達と話したり図書室で本を読んだりして静かに過ごす子供だった。そんなだから、美容室なんていうキラキラしたお洒落空間の中で、キラキラした人達に気を遣われながら会話をするというのはとても精神力がいることだった。大学生になった今でこそ昔より人見知りもマシになったけれど、それでも美容室に行くときにしか利用しないバスの中では脳内シュミレーションを欠かさないのだ。
バスを降りて十分も歩かないところに美容室「check」はあった。小さな個人経営のお店で、店主のユミさんが私の母親の知り合いという縁もあり、私なんかは物心ついた時から今まで、七五三や成人式までお世話になっている。
打ちっぱなしのコンクリートの外壁に、お洒落な字体で「check」と書かれた金属板が掛けられているその建物は住宅街の一角にある。
緊張しながらガラス戸を開けると、店内の視線が一気に自分に集まるのを感じた。
「こんにちは」
私の小さな挨拶に、大きな挨拶が返される。お客さんは私の他に二人いて、従業員は数年前から変わらず店主のユミさんを含めて三人だ。姉御肌で化粧が濃いめの店主ユミさんと、三十代前半のチャラ男ヒライさん、四十代半ばのあごひげが似合う穏やか眼鏡タダさん。三人とも会うたびに髪の色が違うので、それだけは私の密かな楽しみでもある。今日はユミさんがピンク、ヒライさんがシルバー、タダさんは緑だ。他の美容室に行ったことがないから分からないが、美容師さんとはそういうものなのだろうか?
「こんにちは、寒かったっしょ?」
ユミさんはお客さんの髪に何かを塗りながら私に問いかけた。低くてよく通る声だ。
「そうですね、今日は風が冷たくて」
返しながら、タダさんにコートと鞄を預ける。今日はタダさんが私の担当なのだろうか。そう思うと、少しだけ気持ちが楽になるような気がした。