「あ、ちょっと待ってて」そう言って控え室に引っ込むと、百合香はすぐに戻ってきた。「これ、あげる。もう残り少ないから」ワックスだった。先ほどのよりもひと回り小さい。
「えっ。でも」
「そのかわり、またウチを使ってよお」悪戯っぽく微笑むその顔に、章太郎はなんども頷き返した。
「ありがとうございますっ。また、来るす」
店の前に出て、百合香は章太郎を見送った。小さな背中が見えなくなるまで、立っていた。
「いいな、なんか」ため息が漏れる。
目をやると、はす向かいの肉屋では田丸肇40歳独身が、にこやかな顔で客にコロッケを手渡していた。
「気になってる人、あたしにもいるんす」
あの人の中であたしは何位なのか。どうか上位でありますように。百合香の密かな恋心は、章太郎の青臭さに触発され熱を帯びていた。終わったはずの青春は、ひょんなことから再び芽吹く時がある。彼女は頬を赤らめて、こそこそと店の中へ戻っていった。
月曜日、章太郎は髪型が崩れるのが嫌で朝練をサボった。30分かけてセットしてマスカットの香りを漂わせ、軽い足取りで正門をくぐった。できるだけ普段通りに振る舞おう。どーんと構えて。
カッコいい。見違えたね。皆の賛辞の声を幻聴しながら、教室の扉を開ける。
「おはよっ」
現実はそう甘くないのである。クラスメイトたちは章太郎を一瞥すると、ポカンと口を開けたのち、大笑いした。「なんだその髪」「今日はデートかうはは」揶揄の声が教室にこだまする。
「おっす。なに、イメチェン」普段と変わらないエリがありがたかったのに
「うるせ」と言って章太郎は顔を伏せてしまった。
馬鹿だったあ俺は。うかれてセットなんかしてくんじゃなかった。からかわれるに決まってるじゃないか。ああ時間よ早く過ぎ去れ。1、2、3、4……
後頭部を誰かにちょんと突かれても無視した。ちょん、が、ちょんちょんちょんになったあたりでようやく顔を上げた。
「んだよっ」
「いいじゃん。どこでやったの、それ」修二が笑顔でこちらを見下ろしていた。
「お、おまえかよ。……内緒だよ」
「教えてよ。俺の行ってるとこ高くてさ。店変えたいんだ」
「いくらぐらいなの、そこ」
「章ちゃんが教えてくれたら教えてあげる」
あれえ、絶交してたはずなのに、と思ったのもつかの間、ハッとする。ーー助けようとしてくれたのか。
むずがゆくて、章太郎は頭をがしがし掻いた。セットを少し崩す目的もあった。
気がつけば、クラスメイトが集まっている。勝手に髪を触る者。鼻をひくつかせ、香りを嗅ぐ者。ファッション雑誌を手にして、その髪型にはこういう格好が似合うのではないか、とコーディネートを始めたのは皆川夏来だ。
「わちゃわちゃうるさいなあ」嬉しかった。
朝のホームルームを終えて、空き時間にエリが話しかけてきた。
「機嫌良さそうだね」
「ほっといて」
「いい事教えてあげよう。さっきから田島さんが、あんたをちらちら見ている」
「ほんとに」
「ついでに教えてあげよう。あんたのランキング、一番最初は16位だったの。それを見つけた田島さんがね、三杉君はもっと上だよって怒って、無理やり引き上げたんだよ」
一限目の教師が入ってくる。起立、の号令を聞いて章太郎は元気良く立ち上がった。
この日、宿題をすっかり忘れていて、居残りを命じられる。朝練をサボったことがバレて顧問には叱られるし、給食は大嫌いなポトフだった。
それでも、夜眠りにつく時章太郎は微笑んでいた。感情目まぐるしい一日だったがなんのその、穏やかな寝息を立てている。
そうしてまた、彼は一日歳をとった。一日分、大人になった。