そんな時、二十年以上前に住んでいたこの街の事を思い出した。特に美容室に通っていた頃の自分を思い出すと、胸がきゅうとなった。細かい事柄は何一つ思い出せないのに、髪を切ろうと決めた後の感覚だけは鮮明に思い出された。ソワソワしてワクワクして、それは確かに明るい未来への期待だった。『あの頃に戻りたい』とても強くそう思った。
シャンプーを終え濡れた髪に中村さんが触れた。毛先を整えるだけなのに、前のカットがどんな風にされたか、つむじの向きだとか、毛質を丁寧に見てくれているのがわかった。その姿勢に家庭での自分の姿が重なった。たとえお礼を言われなくても、たとえ一生この気遣いに気づいて貰えなくても、そんなもの欲しいと思ってやった事はない。全ての動機はただ、そうしてあげたいという気持ちだけだった。ふと、この職業はどれだけのプレッシャーと不安の中にあるのだろうと思った。正解のない世界で、自分素晴らしいと思えるものを信じて出し続けるのだ。その勇気と強さを想うと胸が締め付けられそうになった。
髪を切られながら、世間話をした。二十年前にこの場所にあった美容室の常連だったこと、あの頃の自分を懐かしんでここに来た事、本当は坂道で引き返そうとしていた事、中村さんを一瞬、不審者と間違えそうになったこと。全てが笑い話になった。鏡の中の自分がどんどん生き生きとした笑顔になって行くのが分かった。髪のボリュームを変えただけなのに、やっぱり全然違うと思った。その時、突然胸の中で忘れかけていた何かが光った様な感覚に襲われた。
――『えないけど……、見えるんだよ』
聞き覚えのある声が過った。それは確かに、かつてこの美容室で聞いた声だった。その時カットをしてくれた方の顔もはっきり思い出せないのに、声だけは鮮明にわたしの中に戻ってきた。あの時、あの声は、何と言っていたんだっけ。
「こんな感じでいかがですか」
中村さんの声にハッとして、鏡の中に視線を移した。良い感じ。素直にそう思った。けれど、「わたし、やっぱり前髪切ります」気づくと、断言していた。
「いいんですか?今日は形を整えるだけって」
優しくも、注意深く確認をしてくれる中村さんに感謝した。
「いいんです。切りたいので」と続ける。切ってからやっぱりやめた。なんて絶対に言わないからね。という決意も含んだつもりだが、彼にはそんな事は問題なさそうだった。ただ、わたしが今、したいイメージを一生懸命感じようとしてくれている事だけが、ひしひしと伝わった。
「かしこまりました」とわたしの気持ちを汲み取り終えた中村さんは、彼の中でも一つの決心を終えたように見えた。「では」という低い声の後、美しく磨き上げられた銀色の細い脚がそうっと視界に滑り込んで来た。
ジャキン、という気持ちいい音がしてゆっくり目を開けたその時だった。
あ、見える。そう思った。そして、思い出した。
――『未来って目に見えないけど、髪型を変えたり、キレイにしたりすると、一瞬、見えるんだよね。その先に続く未来が見えてくるんだよ』
そうだ、あの時、あの美容師さんは確かにそう言った。そしてわたしはあの時、何度もその体験をしていた。
再びハサミの動く気配がし、わたしは目を閉じた。
娘の声が聞こえる。「お母さん何その前髪」ぶっきらぼうに、きっと娘はそう言うだろう。夫は相変わらず無言で夕飯を食べ、目も合わないかもしれない。だけど、その世界は本当にそうだろうか。本当に、そこで終わりの世界だろうか。「何その前髪」その後は「案外いいじゃん」ではないだろうか。例えば、夕飯を頬張るだけの夫には、「イメチェンしたの、どう?」と声を掛けたら、照れ屋で口下手な夫は「気づいてたよ」などと耳を赤くしたのではないだろうか。