髭とパーマの彼は、「そうです。えっと……」と、言葉に詰まった。その瞬間、不安が確信に変わった。わたしは彼を知らなかったし、となると当然彼もわたしを知らない。つまりここはあの店ではなくなっている。わたしを迎えてくれた彼の名は、中村さんといった。
***
「すみません、予約も無しに……」
全部で4台ある鏡台の一つに座ったまま、そう声を掛けた。
「いえ。むしろありがとうございます。でも逆にいいんですか?カットのご予定じゃなかったんですよね」
中村さんはそう言うと、道具が沢山乗せられたキャスター付きの台と丸い椅子を同時に滑らせながら、わたしの背後に座った。
「いいんです。そろそろ切らなきゃと思っていたし」
言ってから、しまった、と思った。どこでやっても同じというニュアンスに取られなかっただろうか。
「了解です。いつもはどんな感じに?」
中村さんの明るい声を聞き、無用の心配だったと小さく胸を撫でおろした。
「全体のボリュームを抑えるようにして、長さはあまり変えないで整える感じで……」そう伝えると、「かしこまりました」と歯切れのよい返事が返ってきた。
シャンプー台の椅子に横になると、思わず「あ~」と声が出た。なぜ美容室のシャンプー台の寝心地はこんなに良いのだろうと、この瞬間だけはどこのお店に行っても毎回思う。そう言えば、この街に住んでいたまだ若かったわたしもそう思っていた。と思い出すと、年のせいではないのだな、と何だかむず痒く嬉しくなった。まだ若い、訳ではないけれど。
「熱くないですか、じゃあ、シャンプーしますね」
頭にほんのり温い湯が当たり染みていくのを感じた。ポンプを二三度押したような音が聞こえた瞬間思わず「あ」と声が出た。
入り口で嗅いだあの匂いだとすぐに分かった。その声に中村さんはシャワーを止め「どうかされましたか?」と聞いてくれた。シャンプーの途中だし「いえ、何でも」と簡単に済ませようかと思ったけれど、それはしたくないと思った。答えられることは答えてあげたいと思った。それはきっとわたしがそうして欲しいからだった。
「この香りさっきお店に入った時にいい匂いだなって思って。この香りが自分の髪からしたら嬉しいだろうなって、さっきそんな事を考えたものだから」そう伝えると中村さんは「そうですか!嬉しいなあ。良かったです!」と跳ねるように答えた。目元に当てたガーゼで表情は見えなかったが、とても喜んでいる風に感じられた。ちゃんと言葉にしてよかったと思った。シャーと水が噴き出る音の後、ゆっくりと頭にお湯を感じ、シャンプーが再開された。優しく広がる花の香りをいつもと逆向きに受け止めながら、ふと、家族の事を思った。
娘と夫、三人暮らしの専業主婦。毎朝、娘と夫を送り出し、家事をこなし、また二人を迎え入れる。はっきり言って大変だけど、幸せな生活だと感じている。けれど、娘が成長するにつれ、彼女とのコミュニケーションが難しいと感じ始めた。夫はもともと無口で、話すよりもメールの方が会話は成り立つ。二人とも悪気はないと分かっている。乱暴ないい方や態度をされるわけではない、けれど、ほんの些細な瞬間に声が聴きたくなる瞬間があった。わたしが彼女たちに必要な人間だと。声に出して、言って欲しくなる瞬間があった。