グループホームの施設長から話を伺ったところ、祖母は居室へと引きこもったまま、食事にも入浴にも出てくることがなかった様で、介護職員が丁寧に声掛けをしても、逆に怒らせてしまうだけであり、とても頭を悩ませていたとのことだった。僕と母は施設長に謝り、これからどうしていくのかを施設長と介護職員を交えて話し合うことにした。母が祖母の居室に泊まり込んで数日世話をすると言い出したが、母にも仕事があるため、介護職員達に遠慮された。また、祖母を実家へと帰らせることも考えたが、今の状況では四六時中、見守りのある場所の方が安心だと感じたため、それも無しになった。その後もあの手この手と考えたが、一向に有効な手立てが見つからないでいた。そのような中、一人の介護職員が口を開いた。
「一度、訪問美容師さんを呼んでみてはいかがですか?」
その介護職員の話によると、どんな認知症の人でも、花が咲いたように笑顔にさせることができる訪問美容師がおり、暗い祖母の表情を明るく出来る可能性があるとのことだった。入浴もままならない状態の祖母を少しでも綺麗な状態にしてあげることは、僕や母も望むところだったので、あまり期待はしていなかったが、駄目元で一度依頼をかけてみることにした。
依頼の当日、僕は祖母の様子を見させてもらうことにした。何故ならばあのように疲れ果てた祖母の姿を初めて目の当たりにしたからであり、母や僕でも、どうすることも出来なかったこの状況をひとりの訪問美容師が何とか出来るとは、まことしやかな話だと感じたからだ。
訪問美容師は、依頼時刻の10分前に現れた。身長は180前後、体格は痩せ型、年齢は20代中盤の男性美容師だった。彼は僕の前まで来て、自己紹介と共に名刺を手渡してくれた。手渡された名刺を見ると、そこには彼の名前と共に、介護美容師、介護職員実務者研修修了と記されていた。後にグループホームの介護職員から聞いた話によると、その訪問美容師は、以前に介護施設で職員として働いていたという経緯をもっており、その中で、介護職員実務者研修を受講し修了したとのことだった。介護職員実務者研修とは、介護の実務者が介護福祉士国家試験を受けるために必要な受験資格のひとつであり、質の高い介護サービスを提供するために、実践的な知識と技術を習得することを目的として作られた資格だ。また介護美容師とは、介護を必要とする人達のヘアカットを専門に行う者が持つ資格である。つまり訪問美容師の彼は国家資格である美容師免許と共に、介護美容師という、より専門的な資格を持ち。さらには介護職員実務者研修をも修了している、いわばその道のプロ中のプロだった。
彼はひとしきり僕と話すと、次に祖母との話に移った。祖母は最初とても怪訝な顔をしながら彼の話を聞いていたが、どんなに怪訝な顔をされようと優しく接し、祖母の話にも真剣に耳を傾ける彼の姿に、祖母は次第に惹かれていった。気が付いたころには、祖母の表情は和らぎ、ヘアカットを自ら依頼するまでに至っていた。彼は「一度セッティングしますので、居室から出て待って頂けませんか」と訴えた。
祖母と僕は彼の訴えを聞き入れ、居室の外で待つことにした。10分程待つと部屋の中から「どうぞ、いらっしゃってください」と彼の声がした。祖母と僕は居室の戸を開けた。
そこには信じられない光景が広がっていた。先ほどまで居た祖母の居室は、しっかりとした美容室となっていた。三脚に備え付けられた大きな鏡と、背もたれのついた座り心地のよさそうなロッキングチェアが置かれており、さりげなく流れる洋楽のBGMは、洗練された美容室の雰囲気を醸し出していた。