「いらっしゃいませ〜」
扉を引いて入ってきたのは清楚な雰囲気のある女性だった。女性は不思議そうにきょろきょろと店内を見渡している。やがてようやくこちらに気が付いたように目が合うと、一瞬神妙な顔を見せたがすぐに微笑み返した。
「こんにちは」
「こんにちは。今、閉店につき特別にサービス中なんです。どうぞこちらへおかけになってください」
「閉店?そうなんですか。近くの美容室を探しても見つからなくて絶望してたんです。なのに偶然このお店に出会えるなんて。ほんと、私って運がいいのかも」
女性は鏡の前の席に座った。
「今日はどうなさいますか?」
その言葉に女性は少しだけ恥ずかしそうに左手を示してみせた。薬指にはプラチナのリングが輝いている。
「実は、これから彼のご両親に挨拶に行くんですけど、髪をちゃんとしときたいなと思って。一応整えてはいたんですけど、緊張で汗かいて崩れちゃったんですよね。それ見たら余計不安になってきちゃって……」
「なるほど。ご希望はありますか?」
「えっと、お任せしてもいいですか?お姉さんの意見を参考にさせてもらったほうが安心だと思うので!」
「わかりました」
女性は一度シャンプーを終えてから鏡の前に戻ってきて髪を整えてもらうこととなった。
「結構髪が痛んでますね」
女性は自分の髪に視線を移すと気恥ずかしそうに笑った。
「あー、結構染めたりしてたからですかね……。昔はあんまり真面目じゃなくって校則も無視してオシャレしたりしてて。だから 父を困らせたりもしたんですけど、今の彼と付き合いだしてだんだん変わったんですよね」
髪の下からちらりと見えた耳朶には塞がりきっていないピアスの穴が残っていた。
「ふふ、素敵ですね。じゃあ、今は幸せ!って感じですか?」
「……そうですね。ほんとに、幸せです」
言ってから、自分の言葉を噛み締めるように女性は静かに笑った。佐藤も鏡越しに優しく微笑み返す。
やがて髪に触れる手が止まり、「できました」と佐藤が声を掛けた。女性は鏡に顔を寄せるとその姿をまじまじと眺めた。黒髪は程よい長さに整えられ、全体的にすっきりとして見える。そしてストレートパーマをかけた髪はさらさらと指先をすり抜けていった。
「わ!いいですね。しっかりして見える。これで一安心です」
そう言ってまた鏡を眺めると、少し黙ってからまた口を開いた。
「……こないだ実家の方には先に婚約を伝えてきたんです。そのときついでにアルバム見せてもらったんですけど、なんか若い時の母そっくりかも、あはは」
女性はやがて笑いを収めると席を立った。
「本当にありがとうございました。この髪のおかげでだいぶん勇気が出てきました」
そう言って会釈をしてから扉に手を掛ける。佐藤も頭を下げるとその背に声を掛けた。
「ありがとうございました。お幸せに」
女性は扉を押したが、踏み出しかけた足を止めて振り返った。その眼差しが真剣そのもので、佐藤は少し面食らったようだった。
「あ、あの!私の母の旧姓も佐藤っていうらしいんです。まあ、よくある名前だとは思います。……それで、アルバム見せてもらった時に母の働いてた頃の写真も見たんですけど……!」
言いかけて、口を噤む。しばらく迷うように視線を彷徨わせると、結局それ以上口にはせず笑顔を繕い、深々とお辞儀をした。
「いえ、今日は本当にありがとうございました」
カラン、と客の退店を告げるベルが鳴って扉が閉まる。店内には静寂が訪れた。
佐藤はしばらくその扉を黙って見つめていたが、思い出したようにふう、とため息を吐いて肩の力を抜いた。
結んでいた髪を解きながら先ほどまで座られていた鏡の前の席に座る。髪を梳き、軽く巻いて、最後にヘアオイルで整えると鏡の自分に微笑んだ。
「うん、いいじゃん。これでやっと行く勇気が出た」
いつの間にか時計の音が聞こえなくなっている。見上げれば電池が切れたように針が止まっていた。
「これで思い残すことはないわね」
そう独りごちて窓辺に歩み寄り、倒れて伏せられたままになっていた写真立てを手に取る。そして鏡の前に戻ると写真を眺めた。そこには佐藤の姿があり、隣には夫らしき男性が映っている。そして男性の腕の中にはおくるみに包まれた赤ちゃんの姿があった。佐藤は写真の男性にそっと指先で触れた。
「ここまで立派に育ててくれてありがとう。本当に、大きくなった」
腰につけていたウエストポーチを外して側に置く。名札も外し、写真立てもそっと椅子の上に置いた。それはまるで持っていけない思い出を手放していく儀式のようだった。
「いってきます」
電気が切れ、辺りは暗闇に包まれる。最後に聞こえたカランコロンという軽快な音だけが彼女が去ったことを告げていた。