「ほんとにありがとう。あの、予約お願いします」
「あ、気ぃ遣わないでください」
「そういうんじゃなくて。あのね……」
ここに至るまでどれだけ美容室を探しあぐねていたか、私は熱弁をふるった。祖父の暗示までも、余さず話した。
「すごい偶然」「そうなんです」
「ちょっと怖いぐらい」「そうなんですっ」
だけど、こんな巡り合わせはそう起こりえないもの。これはおじいちゃんが齎した僥倖なのだから素直に従うべし、と私は自分に言い聞かせたのだった。
「では土曜日の十一時、カットカラーでお待ちしてますっ。いい営業になっちゃった」
「楽しみにしてるから、コケて怪我したりしないでね」
「お互いに、ね」
帰宅した後も、私の胸は高鳴っていた。同僚への電話報告を終えて横になっても、なかなか寝付けなかった。夏休みか、遠足でも待ち望む子供みたいに。
土曜。曇りのち晴れ。とっておきの服を着て家を出た。何冊も雑誌を読んで、髪型のイメージも固めてある。うきうきしている。なんて素晴らしい世界。お店の扉を開いて、こんにちは、と朗らかに告げたその瞬間まで、私は完全に浮かれていた。
「こんにちわあっ」丸々太った髭のおじさんが、大音声を返してきたので面食らう。
「……予約したものですけど」
「はいっ。瀬野様ですね。瀬野悠里様。ようこそ」
「あ、お姉さんは」「お姉さん、とは」
彼女の名前を聞いていなかったことに今更気づいた。
「明るい髪で、ミルクティーみたいな色の」
「ああ、そりゃ僕の娘。今日は趣味に行ってますっ」
「え」
「ボーリングにハマってまして。今時珍しいでしょう」
「わたし、彼女に切ってもらうつもりで」
「はあ、娘はまだアシスタントですが。ご予約の時に説明ございませんでしたか」
「『あたしが担当します』って言ってたんですけど……」
「ええっ、何考えてんだあいつ。あらあそうですか。それはそれは。
……どうしましょ」
こっちが聞きたい。頭の中に暗雲立ち込めて、その中にあの娘がベロを出した顔が透けて見えた。いったいなんなの。舞い上がっちゃって馬鹿みたい。気分の落差が激しすぎて心の受け身がとれず、目眩がしてきた。
「では、こうしましょう。お客様のお代は、娘の給料から天引きします。ヤツはボウリング中は絶対電話に出ないので、後ほど改めてご連絡させます。もし、宜しければうちを試してみませんか。腕前は、保証しますよ」
おじさんは胸元の蝶ネクタイを整え、張り詰めたサスペンダーをびん、とはじいた。
「お、お代とかはいいので、せっかくだからお願いします。担当の方は……」
「僕。オーナーの十条と申しますっ」ぐんにゃり綻ばせた顔におもわずつられたけど、きっと私の頬は引きつっていたと思う。
鏡の前でたどたどしくオーダーを伝えると、十条さんの気配が一変した。どこか職人めいた厳そかな眼差し。への字口。だるまに似ている。
「この色味でしたら、少し、ベースを短くしても、可愛いと、存じますが、長さは極力、変えたく、ないですか」
細切れの言葉。それから小声で、うむ、いや、そうか、と囁きながら私の髪に触れ、天を仰ぎ、再び眺める。色んなデザインを、私にあてがっているみたいだった。
恐縮してしまうほど真剣そのものといった感じだった。その様子は、もう全部委ねちゃおうかなとこちらに思わせるような、誠実さと頼もしさを兼ね備えていた。そして何より、可愛いという言葉に私は弱い。
「じゃあ、少し短めで。おまかせします」
言うと、十条さんは跳ねた。東京ドームみたいなお腹が揺れる。床板が、ぎ、と鳴く。独特の喜び方である。
「ゆっくりいきます。何かあったらその都度、遠慮無く仰ってくださいね」