物凄くおしゃべりそうに見えたのに、十条さんは施術中、髪について呟く程度で、「お仕事はなにを」のような定番の会話も無く、室内は重い静寂に包まれていた。この親子、なかなか見た目とギャップがあるなあなんて考えてる間に、私は少しずつ変貌を遂げてゆく。
「いかがで、しょうか」
「あらあまー」
実家の母みたいな言い方になるぐらい、短めの髪は私にとって斬新で、自分でいうのもなんだけど、似合っていた。
「びっくり。っていうか、けっこうイケてるかもって思ったりしてえへへ」
「やあ、よかったっ。娘の不手際のお詫びをと思って集中しました。さ、カラーの用意しますからね、何か飲んでてください。紅 茶か緑 茶、それから当店特製ハニーラテ。アイスかホット選べます。今日 は飲み放題にしますよ。ノミホ。ひひ、ひ」
私はすっかり機嫌を取り戻していた。ラテも美味しい。
カラー中は十条さんもリラックスした様子で会話が弾んだ。店名はハニカム、と読むらしい。蜂の巣という意味で、たくさんのお客さんが集うように、という願をかけたのと、なんでも十条さんは蜂蜜には目がないのだそうだ。この体型だもんね、と私は得心していた。
「実はもう一つ意味が……」
彼の言葉は、ガラス扉が勢いよく開かれる音で断たれた。鏡があるのに、私たち二人はおもわず振り返っていた。肩で息した娘さんが、玄関口に立っている。
「こら。どういうことだ」
「き、聞いてっ。瀬野さんと、それは運命的な出会いをしました。ね。それでね、私の初めてのお客さんになってもらおうと思いつきました。勿論お代は安くするつもりでした。だけどそれを父さんに相談する前に……すっかり忘れてました。スペアとった瞬間、思い出しました」二人を交互に見やって必死だった娘さんが、突然私の耳元へ顔を近づけた。
「父さんこんなみてくれだけど、なかなかヤるでしょ」
「それどころじゃないっ、ご迷惑おかけして。きちんと謝れい」
「あ。……ごめんなさい。どうしても切らせてほしかったの。反省してます」
私は吹き出していた。鮮やかなスペアを決めた直後、みるみる顔が青ざめてゆく彼女を想像したら妙におかしかった。
「お父さんに認めてもらったら、私を最初のお客さんにしてね」眩しそうな目をして、娘さんは頷いた。
「わあお」緑茶をずるずる啜っていた娘さんが、仕上げを終えた私の後ろで歓声をあげた。
「これなら、コケても誰か助けてくれるかな」
「絶対助ける。下心マシマシで」笑う私たちに、きょとんとした顔の十条さんが尋ねる。
「コケても、ってなあに」
「ナイショ。そういや母さんから連絡きたよ。鰯が大漁だって」
「またか。どうせなら蟹でも捕まえてくりゃいいのに。瀬野さんはイワシ、お好きですか」
「ちょっと待って。奥さん、漁師さんなんですか」
「いえ専業主婦ですよ。土日には決まって釣りに行くのです」
会話の最中に何度も、自分と目が合う。鏡の中の私は、会社に怒られない範囲でカラーを少し明るくして、短めの髪は軽やかで、照れた笑顔を浮かべ、私を見てはすっと目を逸らす。嬉しい気分の恥じらい。はにかみ……
「あっ。ハニカムのもう一つの意味」
「わかりましたか、鋭いっ。ぼかあね、ハムと蟹も大好きで。最高でしょ、店名に大好物が三つも。お腹すいた」
呆れた表情も悪くない。私は私に、はにかむ。そして胸の奥で唱える。
よろしくね、新しいわたし。