口元がひきつるのを感じながら会釈し、そそくさと帰宅した。
洗面所の鏡で、改めて自分と向き合う。久々に見る額になんだか気恥ずかしさを覚えたが、 彼女の言う通り心なしか表情が明るく見えた。
それから数週間、ようやく就職先が見つかった。熱意を注げそうな仕事でもなかったが、 贅沢は言っていられない。
職場から帰宅すると、民間の資格学校から郵便物が届いていた。取り出した資料のタイトルは「ネイリスト養成コース」。
人生は基本的に波風立たなければそれで良いという私にとって、ネイルを塗る時間だけは幸福だと思えた。鬱々とした職探しの日々、昔から心の片隅にありながら無視してきた 「ネイリストになれたら」という思いがふと頭をもたげ、資料を請求したことを今になって 思いだした。
申し込んでみようか。いやでも、ものにならなかったらどうする。唸っていると、タカハシさんの声が蘇った。「次の役決まったら、また来てくださいね」。そういえば、しばらく美容院に行っていない。やはり思い立つとどうしても行きたいのが美容院。次は別の店にと思っていたが、タカハシさんの言葉がどうしても頭から離れない。結局私は同じ店の一番近い日にちを予約した。
「いらっしゃいませー!」
そして出迎えてくれる、今日も元気な高梁さん。タカハシさんは「高梁さん」だった。名前の漢字すら知らない人に自分の一部を任せるなんて、改めて考えると不思議だ。席に着く と高梁さんはさっそく前のめりになった。
「どうでした? クビの役」
「えっと……面接落ちまくるけど、最後は拾ってもらえて……ハッピーエンドって感じで」
「うんうん。で、次の役は?」
一瞬言葉に詰まる。心苦しくはあったが、私はこの「役者の役」を続けることにした。
「脱サラしてネイリストを目指す女性の話なんですけど……」
「へー! かっこいい!」
「そうですか?」
「かっこいいですよ、夢あるじゃないですか」
ひねくれ者の私は、夢で飯が食えればいいけどね、などと皮肉ばかり浮かんでしまう。
「そしたらー、今日は髪色明るめにしません?」
「えっ」
「あ、役的にダメですか?」
「いや、そんなことないですけど……」
戸惑う私に高梁さんは続ける。
「気分が上がる色がいいかなって。ハイライトとか入れて。明るい未来ーみたいな」
単純すぎると突っ込もうとしたが、高梁さんの目があまりにきらきらしていたので、気づいたら「そうですね」と返事をしていた。おなじみの「了解でーす」で着々とカラーリングが進む。
どうなることやらと思われたが、完成したのは明るいながらも悪目立ちせず、適度にハイライトが入ったお洒落なヘアスタイルだった。ぼうっと鏡を見ながら「本当に美容系の仕事をしている人みたい」と月並みなことを考えた。
帰宅後、テーブルに広げっぱなしの資料を拾い上げ、民間スクールに申し込みの電話をした。こんな簡単なことだったんだと、胸のすく思いだった。
その後も美容院に通うたび、高梁さんは必ず役の事を尋ねた。私はその度「スポーツ選手」 「政治家」「ファッションモデル」などと役をでっち上げては、そのイメージ通りに仕上げてくれる高梁さんの腕に感動した。胸に少しの罪悪感を抱えながら。