46歳でこの地に単身赴任でやってきた。田舎町で育った俺が東京、しかも一人暮らしをこの年になってから始めなくてはならない。子供ではないのだし女でもない。いい年をした中年の男がひとり都心で暮らしていてもさほど危険などないだろうとは思っていたが不安だった。
しかし、始めてみると一人暮らしは以外と快適だった。掃除や洗濯も初めは重たい気持ちになったが、自分の思うように部屋を飾ったりアパートの小さなベランダでトマトやナスを育てる事も次第に楽しくなった。
東京に来て5年プロジェクトが終わった時、単身赴任を終え地元に帰る予定だった俺は、幸か不幸か前プロジェクトの功績が認められ次のプロジェクトにも参加する事になって俺の単身赴任は延長された。
覚悟を決めて取組んだ仕事も思いのほか順調に進み、残り半分を過ぎてつい先日、来期から地元に戻れると内示が出た。単身赴任から気づけば7年半が過ぎ、あの頃高校と大学に上がったばかりの娘達もすっかり成人し社会人となっている。
家に戻れる事が嬉しくない訳ではないが、あの頃と家族の状況は大きく変わっていて、今更自分の居場所があるのかと不安がよぎる。
東京での俺の不安を少しずつ解消してくれたのはこの商店街だ。毎日夕飯のおかずや日用品を求めて訪れる商店街は今や俺にとってかけがえのない場所に変わっている。とは言っても、当の商店街には俺はただの客でしかないのだが。足繁く通う場所であったけれど、特別どこかの店と贔屓になった訳でもなし、八百屋のオヤジが俺の名前を呼んで挨拶を投げてくれる訳でもない。ただの客だ。中年の男が頻繁に夕飯のおかずを買い求めたところで誰も気に留める奴はいない。それが東京なのだ。東京の中でもここは下町と言われる地域だが、人情などと言う言葉は地元で生まれ育った者にだけ与えられる。よそ者の自分には当てはまらない。たとえ数年を過ごした場所であっても。
しかし、俺は今日もこうして商店街に夕飯のおかずを求めてやってきた。
「安いよ安いよ~群馬のキャベツ!今年の初物だよ~」
八百屋の若い店主が迫り出すダミ声が聞こえてくるとビールに合う食材を求めるように腹がグーっと鳴る。
「お父さん!どうだい、キャベツ!このまま味噌つけて生でいけるよ!ビールに合うよ~」
去年も同じ時期に同じ事を言われた。しかし、一人暮らしの俺にとって、キャベツ1玉は多い!そりゃ味噌つけて生で食べる群馬キャベツが上手い事は知っている。知っていても1玉を手にする勇気は無かった。
「お客さん、こっちにしなよ!」
店の奥から出てきた若いおかみさんが、手にしたビニール袋を俺の目の前に掲げた。中にはちぎったキャベツがちょうど両手のひらに乗る分ぐらいが入っていた。
「これなら今夜一回分でしょ!あつ、これ今ちぎったばっかりだから味は落ちてないよ!」
若いおかみさんの機転で新鮮なキャベツが手に入って気持ちも高揚し胃袋はさらに唸りを上げた。あとは、タンパク質だな!
次女の春美が栄養士の専門学校を卒業して企業の社員食堂へ務めるようになった頃、珍しくメールを送って来た。
(野菜も大事だけど、タンパク質を摂る事も忘れないでね!年を取るとタンパク質が不足するから気にして食べないと足腰弱くなるよ!)と。