正文が初めてこの観覧車に乗ったのは、優香を乗せたときよりずっと前、正文の少年時代まで遡る。正文が十歳にも満たない頃に、一緒に住んでいた真紀子という女性と乗った。しかし正文の記憶はあいまいで、それをたしか叔母さんか祖母か、いや、年の離れたいとこの由紀ちゃんと一緒だったかな、なんてくらいにしか覚えておらず、それでもこうして観覧車に乗ってみればその頃のことがなんとなく思い出されてきて、あれ、違うかな、あの時一緒に乗ったの、本当は誰だったっけ、と正文は出てきそうで出てこない記憶に頭をひねる。そうして頭をひねってみても出てこない人が、まあ真紀子なのであるが、その真紀子が誰なのかというと、それは正文の父親、達夫の当時の恋人だった。恋人ということは真紀子が正文の母親ではないのは明白で、じゃあ正文の母親はどこに行ったのだ、ということになるが、それは正文も達夫も誰も分からなかった。正文より小さい三歳の弟を連れて、母親は父親の達夫と正文の元から去っていった。それ以来、母親と弟には一度も会えていない。母が出て行った原因は達夫の生来のだらしなさからだった。母親は父である達夫の女癖の悪さや酒癖の悪さに愛想を尽かし出て行ったのだった。幼い正文は母親に対して、どうして自分を連れて行こうとしなかったのか、と不満と悲しさを覚えたが、その気持ちを誰に言うことも、父親の達夫に不平を言うこともできなかった。すまんなあ、正文、お前は何にも悪くないのになあ、と傷心した様子の達夫を見ていると、どうしてかすべての原因であり憎むべき相手である達夫に何も言えなくなった。そんな父親が、母親と別れた後に連れてきたのがその、真紀子という女性だった。真紀子はまるで自分の子供のように正文を可愛がった。しかしその真紀子も達夫と恋人関係にあったのはほんの数か月程度で、正文もそれだから真紀子のことなどはすっかり忘れていた。
当時の正文の目に、ものすごく年上の大人の女性に見えていた真紀子は、まだ二十歳を少し過ぎたかそこらの年齢の若い女の子だった。二十歳そこそこなのに大のお酒好きだった真紀子は、ある日蒲田にある居酒屋のカウンター席に座って一人お酒を飲んでいたところ、顔を真っ赤にして酔っ払いながら、カウンター越しに店主に文句を言う達夫を見かけた。達夫は何がそんなに気に入らなくて怒っているのかわからないのだが、店中に響き渡る声で怒鳴る達夫を見て、怖くなり店を出ようかと考えていたところ、先ほどまで怒鳴り散らしていた達夫が今度は声を上げてわんわんと泣いている。何があったのか相変わらず分からない真紀子であったが、たっちゃんたっちゃんと店主や周りの常連客に言われながら慰められている達夫の姿を見ると、なんか意外と悪い人じゃないのかも、と皆の中心にいる達夫を見ながら思った。それが達夫の第一印象だった。そのことがあってから、なんだか達夫のことが気になってしまい、その居酒屋に通い始めた真紀子も、いつのまにか居酒屋にくる常連客や店主などとも仲良くなり、そこで仲良く話しているうちに、その年の春に上京をしてきたばかりで感じていた心細さや何かが、なくなりはしないまでもどこかすうっと、楽になるような思いがあった。当然、達夫とも顔を合わせれば話すような間柄になっていて、色々なことを話しているうちに、達夫には子供がいて、奥さんがいたが今は逃げられてしまったことなどを知った。たしかにこの男と結婚したら、愛想を尽かして出ていくのも無理はないな、と俯瞰した目で見ている反面、達夫の無邪気な一面や、本当は誰よりも傷つきやすくそれを隠すために虚勢をはり、お酒を飲みすぎては悪酔いし周りと衝突してしまう達夫にどうしてか、この人、本当はこんな人じゃないのに、と同情なのかほっとけない思いに駆られてくることもあった。ある夜、居酒屋で随分と飲んで酔っ払った帰り、なぜそんなことになったのか達夫と二人、夜道を家路に向って隣同士に歩いていると、達夫が、真紀ちゃん俺、真紀ちゃんみたいに可愛くて一緒にお酒が飲めて、そんな子とずっと一緒にいられたら幸せだなあ、俺じゃだめかなあ、だめだよな、だって俺ろくでもないもんね、何でこんなろくでもなくなっちゃったんかな、と言ってへらへらと無理に笑顔を作っては悲しそうな目になる達夫を見て、真紀子は、たっちゃん、と呼びかけ、なに真紀ちゃん、と答える達夫の手を握って、じゃあさ、もうろくでもなくなくなればいいんじゃないの、と言った。その言葉を聞いた達夫は、必ずこの子を幸せにする、絶対もうろくでもならなくならない、と心の内で決心して、それは口には出さず真紀子を抱き寄せてから、そっとキスをした。