他のメンバーは、『またか』という感じの苦笑いを浮かべている。聴衆は爆笑の渦。冷たい北風が吹きすさぶ、身も凍える真冬の野外会場は、ほんわかとした温もりに包まれた。それは仕事の、学校の、家事の、一日の疲労を癒してくれる和やかなひと時だった。クラシックコンサートのようにタイトな緊張感に閉ざされた、堅苦しい閉塞的な空気が支配する会場ではなく、野外の気楽な簡易ステージでラフな演奏を聴くのは久しぶりで、新鮮な気分だった。
曲も終盤を迎え、ヴァイオリニストの興奮も絶頂に達したのか、大きくのけぞって最後の音を弾きながら、その反動で大振りに前へ屈みこんだ瞬間、その体勢が不自然に固まって静止した。他のメンバーの顔が揃って、『またか』と言いたげな渋面に変わった。これって、ひょっとして…
演奏が終わると、異変を目にした男性スタッフらが駆け寄り、両脇から二人がかりで彼を抱え、舞台袖へと運び、テント内のベンチへ横たえた。
…あれって、やっぱりぎっくり腰だよね?歳なのに無茶をするから…。容態を心配しつつ見守っていると、チェリストが壇上からマイク越しに喋り始めた。
「皆さん、すみません!御覧の通り、ぎっくり腰です。まあ、いつものことなので、我々は呆れるだけですが、皆さんはびっくりされたでしょう、お騒がせてして大変申し訳ありません。今回も、くれぐれも調子に乗り過ぎるなよと釘を刺したのですが、案の定でした。まあ、年寄りだと思って、大目に見てやって下さい」
私は、スタッフに腰を擦って貰いながら痛そうに顔を歪めて横たわるヴァイオリニストに視線を走らせた。老境の域に達しても、後先考えず、なりふり構わず、あれだけ熱い情熱を音楽に注ぐことができる老人へ、嫉妬混じりの羨望を抱かずにはいられなかった。同じ音楽を志す者として。
「あと一曲、『ジングルベル』を演奏する予定だったのですが、残念ながら…」
チェリストと私の視線が宙で絡み合った瞬間、彼の言葉がプツっと途切れた。彼の視線は私の右手にスライドする。悪い予感がし、背筋に悪寒が走った。
一秒後、予感は的中。後方で聴いていた私めがけて、ステージ上からまっすぐにチェロの弓の先が向けられた。
「お嬢さん、それ、ヴァイオリンだろうっ?代わりに弾いてくれないかっ?」
老齢の割によく通る声で指名を受けた瞬間、『やっぱり』と眉を顰めた。ギャラリーの視線が一斉に私に集まる。と、いうか、私の右手が持つ黒いケースに。その膨大な目線の数に気圧されながら、『無理無理!』と、ぶんぶん首を横に振る。
…っていうか、そもそもこれ、ヴァイオリンじゃないし、ヴィオラだし!
「お嬢さん、頼むよ!一曲だけだから。ジングルベルなら即興でも弾けるだろ?」
私は首と右手を思いきり横に振り、全力で辞退する。そんな、急に無茶ぶりされても…。困惑の余り、その場から逃げ出そうとした時、切実な雰囲気を一掃させるように突然、極寒の空気を震わす高らかなフルートの音色が響き渡った。
老婦人はワンフレーズ吹いた後、物腰も柔らかにたおやかに口を開いた。
「お嬢さん、困っているお年寄りがいたら手を差し伸べてあげましょうって、教わらなかった?私たち今、とっても困ってるの。そして、あなたの手を必要としているの。どうか力を貸して下さらない?」その真摯な表情と口調が胸を衝いた。それはその場にいた聴衆にも同様に響いたようで、途端に仮借なき眼差しの群れが私を突き刺した。『これで拒んだら、あなた人間じゃないね』と数十の声なき声が訴える。隣にいた中年夫婦にも、批難がましい目で話しかけられた。