その日は月もほとんど雲で隠れていて、いつもより暗い夜だった。梅雨時期ということもあり、雨は降っていなかったもののジメジメとして暑苦しい大気が肌にまとわりつくような日だった。僕は不謹慎にも勤務中からビールを飲むことばかり考えていた。父のことがあって、一旦は頭から消えてしまったものの、ひと段落すると途端にむくむくとその考えが頭に浮かんできた。蒲田といえば餃子だ。たしか夜遅くまでやっている餃子屋があったはずだ。そういえば、あかりに連絡をできていなかったことを思い出した。もうこんな時間だからあかりはもう寝てしまっているだろう。あかりはどうしても一人の時間が多いからか、一人でいることになれている。いや、僕が勝手にそう思っているだけかもしれない。でも、生活力は同年代の子供たちと比べると相当に鍛えられていると思う。掃除も洗濯も自分でやるし、食事は用意されていなければ冷蔵庫にあるものを見繕って思いつくまま作って食べる。僕がだらしないからだろうか。あかりは一人で生活ができるという意味では、もうすでに大人なのかもしれなかった。世間一般で定義されているいわゆる自立した人間としての大人。あともう一年、小学校に通わないといけないというのに、あかりは僕なんかよりもよっぽどしっかりしていた。
暗い道をとぼとぼと駅の方を歩いていると、ぼんやりとした光のようなものが目に入ってきた。ちょうどそこは橋があって、下に川が流れていた。いわゆるドブ川だ。街灯はあるものの少し橋から離れているからなのか、川は思った以上に暗かった。怪しいくらいに静かで、暗さが怪しさを助長させている。その中に小さな光が無数浮かんでいるようにみえた。なんとなくその光はその場所には似つかわしくない。そう思ったからなのか、自然に目に入ってきたようだ。よく見るとその光はゆっくりと動いているように思えた。いや、動いているというより浮いている。じっくりと時間という流れを押し戻しているような、そんな怠慢な動きだった。
美しいとは感じなかった。一度僕は山梨の山奥で蛍を見たことがある。暑さが落ち着いてくる夕方。急に吹き始めた心地よい風もあって、その空間の大気がクリアになっていくように感じるような日だった。その中に、小さなぼんやりとして、でもはっきりとした光が宙を舞う。蛍の光はとても尊くみえた。でも、今見ている光はそれとは明らかに別ものだった。もう少し濁ったような弱くおぼろげな光だった。とてもやわらかくゆっくりと周囲と溶け込んでいる。光の大きさも明らかに蛍の光に比べると大きい。よくよく考えてみればこんな都会の川に蛍がいるわけはない。海も近いこの街で蛍が生きているわけはなかった。
僕は引き寄せられるように橋の欄干までいって、川を覗き込んだ。小さな光がゆらゆらと漂っている。水草から水草へ、岩から岩へ、飛び回る蛍とは違い、その光は川のほとりにほんわりと浮かんでいる。まるで灯篭の灯が川の上に無数に浮かんでいるような、そんな光だった。数は30個程度。いやもっとあるかもしれない。今にも消えてしまいそうな弱々しい光もあって、正確な数は数えられない。でも、かなりの数はあるように見えた。僕は発光している本体を見極めようと一番手前にあるように思える、そこそこの明るさのある光を見つめた。見つめれば見つめるほど不思議な光だった。そこには、光ろうとする意思がないよう思える。蛍のようにメスを呼び込むために必死に光ろうとしている感じはしなかった。どこか燃え尽きる間際の線香花火ような、フィラメントがきれる瞬間の電球のような、そんな光だった。形はほぼ球体で、でも、中心部にはなにも見えない。どうやら何かが発光しているわけではないようだ。光そのものが存在している。そんな感じに思えた。これはもしかしたら火の玉なのかもしれない。成仏できなかった人の魂が球状の炎となって空中を浮遊する怪火。でも、僕にはこの光が人々を脅かすような悪いものには見えなかった。もっと身近で親近感のあるようなものに見えた。未練があるというよりも、その場所にいたくて存在している。そんな思いを感じる光だった。