昭一郎が入退院を繰り返すようになった一年前から千秋はずっと覚悟をしていた。五十年以上連れ添った夫婦は親子の関係とはまた違うかもしれないが、自分と同じように母も一年の間に覚悟を決めていたはずだ。もうちょっと母にはしっかりしてほしかった。これから独りで生きていってもらわなければならないのだ。
とはいえ、新しい暮らしに慣れるのが簡単ではないことはわかっている。時間はかかるだろう。だから少なくとも布美子が落ち着くまでは布美子に寄り添って暮らそうと、千秋は蒲田の実家に帰ってきていたのだ。
だが、千秋が実家で過ごそうとしていたのは、それだけが理由ではなかった。
本音を言えば、二子玉川のマンションに戻りたくなかった。母や家のことは口実かもしれない。そう、夫の卓哉に千秋は心の底から会いたくなかった。家を出たかったのだ、とにかく。千秋の頭の中で考えがぐるぐると回る。
「卓哉さんはやっぱりお通夜に呼ばないの?」
通夜に戻った日、そう布美子に聞かれて千秋はついカッとなって言い返した。
「当たり前でしょ! 言わせないでよ。わかってるでしょ?」
千秋が知らない間に卓哉は三年も社内不倫を続けていた。そのことを知って以来、さんざん布美子に電話で愚痴っていた。自分がどれほど傷ついたか。そして自分自身も責めたか。娘として母にしか言えない心の内を晒して、気持ちをすべてわかってくれていると思っていた。なのに、その言葉だ。どうして無神経にそんなことが言えるのだろう。
布美子のそういうところが昔から大嫌いだった。呑気というか天然というのか、人の気持ちを考えずズケズケと踏み込んでくる。こちらが怒っても、自分が気に障るようなことをしたという自覚がないから響かない。
「ねえちょっと、痛いわ」
気づくと家の前で、千秋は布美子の手を知らず知らずのうちにギュッと強く握っていた。あわてて力をゆるめ、取り繕うように言う。
「今度から出かける時にはひとこと言ってよね」
「ハイハイ」
「ハイハイじゃないわよ」
千秋がため息混じりに言うと、布美子は急に言い返してきた。
「お前、お父さん亡くなったからって急に帰ってきて、自分の家みたいに振る舞わないでよ。ここは、私の家なんだから」
さっきまで踏切の前でぼんやりしていた危なっかしい母が一体何を言ってんだか……。思わず千秋は苦笑したが、これからこの家に居続けるためには、この部分を今ここで争うのは得策ではない。布美子の言葉に抗うのはやめて、「そうだね」と一言答えて受け流した。
蒲田駅から西に伸びる大きな商店街の端にある白い壁の洋館「あすなろ写真館」の看板を、傾きかけた日が照らしている。
父昭一郎が三十代の時に勤めていた広告代理店から独立して開業した写真館だ。建ってすでに四十年はたつ。いたるところペンキの剥げた部分が目立ち、古さは隠せないが、さまざまな店舗が入り交じる蒲田の商店の中ではかなり老舗の部類に入り、地元の人々に愛されてきた。だからこの商店街の人間で「あすなろ写真館」で写真を撮ったことのないのは、この数年前にできた回転寿司や携帯ショップなどの店の人間くらいだ。