10月も半ばとなると気温も肌寒くなってきて人恋しい季節と言われることもある。しかし真夏の太陽が大好きな佐藤裕樹にとって低温は苦手だが人恋しいという感覚はまるでない。だからといって人付き合いが悪いわけではない。勤務している大学では社交的で協調性も高い。どちらかといえば周囲から慕われている存在だ。ただ、一人になれる時間があれば、人と群れるよりも一人で自由気ままに過ごしていたいというだけのことだ。幼稚園の頃から彼はそうだった。人恋しいとか寂しいとか、その手の感情を幼い頃から持っていなかったのだ。
今日も裕樹は仕事帰りに一人で日本橋のデパートに来てうろうろしていた。幼少の頃から親に連れられてデパートという空間に慣れ親しんできた彼にとっては落ち着いて過ごせる場所だ。当てもなく店内を見て回り良い気分を味わったあと、下宿近くに戻って近所の飲食店で夕食を引っ掛けてから一人暮らしのねぐらに帰るというのがいつもの流れである。デパートで何かを買うときもあるが、ただ見て回るだけの方が多い。その場の雰囲気が彼にとっては心地良いのだ。今日も上層階からめぼしい売り場をひと通り眺めたあと地下の食品売り場でミネラルウォーターを一本買い、上りエスカレーターで地上に向かうところだった。
「やれやれまた一日が終わるな」
という思いがいつになく強かったが、半年後に職場の任期満了によって東京を去らねばならないかもしれないからそんな気分になるのだろうと変に納得していた。そして何となく後ろを振り返った途端、全身が金縛りにあったような気分になった。そこには小走りで忙しそうに移動する女性店員が一人。その姿は周囲の人間たちの中で一人だけひときわ目立ち、光り輝いて見えた。裕樹は頭の中が真っ白になって自分が何を考えているのかさっぱりわからなくなったが、次の瞬間、
「この人と知り合わないままこの街を去ってはいけない」
という声が全身に響き渡るのを感じた。その声がどこかから耳に届いた聞わけではなく、自分の全身、全細胞がそう叫んでいる気がした。しかしその日はもう20時の閉店時刻になっていて、お決まりの閉店音楽と共にいつもの場内アナウンス、
「またのご来店をお待ちいたしております」
が流れていたから、裕樹は諦めて明日また来ることにした。去りがたい気持ちが強かったが、閉店時間を過ぎてから店に食い下がって居残る客は嫌われる。自称良い客としては閉店になったらおとなしく帰るのが良いマナーというものだ。
岸本里華はデパートで和菓子を販売して二年目になる。といってもデパートの社員ではない。デパートの売り場に出ている店員は少人数のデパート社員と大勢のテナント社員で構成されていて、特に地下の食品売り場では店員が着ている服を見ればその人がどちらなのかが一目でわかる場合が多いが、彼女はテナント社員の方だ。
里華は大学を卒業したあと、饅頭や羊羹、干菓子や生菓子といった和菓子を製造販売する老舗に入社して、デパートの販売コーナーで接客を二年近く務めてきた。入社後に最初に配属された店舗は実家から遠く離れたデパートにあったため、職場の近くに下宿して通勤していたが、10月の初めに実家から近い日本橋のデパートへ転勤してきた。下宿での一人暮らしもそれなりに楽しかったが、実家から通勤する方が彼女にとっては何かと便利だった。下宿だと炊事や洗濯といった家事は自分でしなければならないが、実家であれば親がやってくれる。毎日の販売業務は長時間の立ち仕事だから、閉店の頃には足が張って棒になる。休憩時間は昼の1時間の他には10分程度の休憩が日に数回あるだけだから非常に疲れる仕事だ。その疲れ果てた体で帰宅してから洗濯や掃除をするとなるとかなりつらいこともあったが、今は親がやってくれて時々手伝うだけだからその分ゆっくりできる。