兄がようやく、鼻から手をどけてくれる。私は鼻を摘んで、形が崩れていないか入念にチェックしながら兄を睨みつけた。
「私は夏生兄ちゃんみたいに乱暴じゃないから、甥っ子のことは大切に可愛がってあげるんだ。自分が小さい時にやってもらってうれしかったことは、全部甥っ子にもしてあげる」
「たとえば?」
兄は意地悪な笑いを浮かべながら訊き返した。高校生風情に何ができる、といわんばかりの顔つきに、私は反発心を駆り立てられる。
「たとえば、そう、遊園地とかに連れてってあげる。ほら、昔、春子姉ちゃんと一緒によく行ったじゃん。デパートの屋上遊園地」
「ああ、観覧車!」
兄の顔が、ぱっと嬉しそうにほころんだ。
駅前百貨店の屋上遊園地は、私たちきょうだいにとって思い入れの深い場所である。
私も兄も、この話題ばかりは休戦協定を結んで大いに盛り上がる。
「懐かしいな。大好きだったよ、あの観覧車。おれはひそかに、何色のゴンドラに乗れるかっていうので、その日の運勢を占ってたんだ」
「何それほんとバカだね。でもちょっと分かるかも。私もピンクに乗れたら、やっぱり嬉しかったもんな」
ふたりで屋上遊園地についてあれこれ思い出話を出し合っていると、母も身を乗り出して会話に加わってきた。
「あの遊園地のおかげで、母さんもゆっくり買い物ができたわよ。お姉ちゃんがしっかりしてたから、あんたたち二人の面倒を見てもらって。ほら、覚えてる? 夏休みには露店を張り出してお祭りやってたじゃない」
「夏生兄ちゃんが金魚すくいの金魚丸呑みしたことあったよね! 近所の子と言い合いになって、引っ込みがつかなくなって」
「あったなぁ、そんなこと。忘れてたよ」
私と母と兄は、顔を見合わせてげらげら笑った。そういえばうちの家族、昔から結構仲が良いんだよなぁと、私はひさびさにそんなことを思い出した。
「あの屋上遊園地は、甥っ子も絶対に連れてってやらないとな。この辺に住んでてあそこを知らないなんて、モグリだよ。モグリ」
兄がバターナイフをくるくると回しながら、調子づいて言った。私も大きく頷いて賛同する。
ずっと黙っていた父が新聞から顔を上げたのは、そのときだった。
「父さん、行ったことないな」
一瞬、空気さえも凍りつきそうな沈黙が食卓に降りた。