そんなことを思い出しながら、今目の前にいる小野さんのお嬢さんの話を上の空で聞いている。そして、小野さんが私に残してくれた本を受け取る約束をしていた。「今日の舞台にちなんで、蒲田で会いませんか」と日時を提案されて、断る理由もなく、蒲田東急プラザの屋上で会うことになった。
今回の公演は、出来栄えは良かったのに、なんだか疲れてしまった。打上げは一次会の居酒屋から二次会のカラオケへ移動する前に失礼して、久しぶりに母のお店に寄って帰ることにする。母は、私が生まれてからずっと小さな飲み屋をやっていて、素朴な手料理と水商売らしからぬ人柄で常連客がついている。
川崎駅前の仲見世通りには飲食店が並んでいるが、善光寺に近い場所にある母の店は看板すら小さく、もう35年も立派にやっているというのに、遠慮がちに佇んでいる。小さなドアを開けると「おかえりなさい」という母の声、そして「あら、佐和ちゃん」。カウンターには常連さんが一人、ひとつしかないテーブルには珍しく3人連れの女性客が座っている。私は楽屋から引き上げてきた荷物が入った大きなバッグを置くと、カウンターの中に入って母の手伝いを始めた。
「いいのよ、佐和ちゃん。お料理はもうお出ししたから。座りなさい、何か飲む?」
私が自分でハイボールをつくってカウンターに座るのと入れ替わりに、常連さんが帰って行った。
「舞台どうだった?」
「まあまあ。いつも必ず観てくれていた知り合いが亡くなっちゃって、その人の感想が聞けなくて、なんか張り合いがないわ。」
「そう。おつかれさま。」
母は、私の舞台を観てくれない。私には水商売ではなく、まともな会社員になって欲しかったのだ。今となってはもう親子喧嘩もしなくなったけれど、私の舞台を観ないということが、母の変わらない意思表示なのだろう。
「その知り合いの娘さんが観に来てくれてね。なんかさ、その娘さんを見たら、家庭ではずっと良いパパだったんだろうなって。仕事場では、家庭なんて顧みないって感じだったのに。」
「家族のために一生懸命働いていたんじゃないの。」
「ママ、つまんないこと言うね。それじゃ当たり前すぎる。」
「男の人ってそんなものよ、所詮。」
「じゃあ、ママは損したね。そういう男の人がいなくて…」
口走ってしまってから、しまったと思った。さすがに母は表情を変えることもない。
「ごめん。なんか、もし父親もいたらって思っちゃったの。今までそんなことなかったのに、その娘さんが、なんか堂々としていてさ。」
「佐和ちゃんの父親だって、やれることはやってくれたのよ。ただ、先に家庭のあった人だったから、中途半端に佐和ちゃんを懐かせたくなかったの。」