開演前1時間を切ると、そこからはもうあっという間だ。「開演40分前、客入れ開始です」というスタッフの声に「はあい」と返事しながら、衣装に着替えて化粧を仕上げる。5分押しの開演合図で舞台に飛び出したら、あとは幕が降りるまで駆け抜けるだけ。
カーテンコールで客席を見渡したとき、いつも小野さんが好んで座っていたあたりに空席を見つけた。立ち見のお客様も少なくない満場の中、その一席だけがポツンと空気だけを座らせている。一瞬だけ小野さんと目が合ったような気がして、そういう時にいつもしたように少しだけ口角を動かしてしまった。
すぐに「佐和さ〜ん!」と呼ばれて我に返ると、舞台の下に数人のファンが花束を持って集まっている。さっきまで演じていた古風な女性像から、いつもの私に戻って満面の笑みを浮かべ、板に膝をついてお花を受け取る。抱えきれなくなってしまう花束は、共演者の江美ちゃんに預かってもらう。楽屋に戻ると
「佐和ちゃん、ほんっとすごいよね。またファン増えてない?」と感心される。
「そのうちさ、真紀ちゃんの手も借りないとお花持ちきれないよ」と嬉しそうな江美ちゃんは本当にいい子だなと思う。サラリーマンのお父さんと専業主婦のお母さんのいる家庭で育った彼女には、芸能界なんて向かないのだ。小劇場だから、楽しくやれているのだろう。私は違う、小劇場で実力と人気をつけたら、もっと大きな舞台に進むんだ。私服に着替えて、メイクを軽く落として整えたら、出待ちをしてくれているファンのために外に出る。一人一人に「ありがとうございました」と丁寧にお辞儀をして見送り、お花を活けてロビーと楽屋に飾ってもらい、劇場を後にする。お芝居の出来の良かった日は、共演者やスタッフに「佐和ちゃんはすごい」と持ち上げられて酔いたいのに、なんだか今日は早くひとりになりたい気分で、演出家が一緒に飲みに行きたそうにしているのを気づかないふりをする。帰宅してパソコンを開くと、小野さんの訃報についたコメントは124件、シェアは47件になっていた。
十日後、千秋楽の終演後は高揚感も格別で、出待ちのファンに丁寧に挨拶をして、楽屋に戻ろうとした瞬間、少し離れたところから私を見ている人に気がついた。紺色のワンピースにベージュのコートを羽織っている、中肉中背の女性だ。年齢は私とあまり変わらないのかもしれないが、生活の落ち着きを感じさせる。
「佐和さん?おつかれさまです。」
社交的な微笑で話かけられて、私も同じように軽く会釈をした。
「今、少しお話させていただけますか?」
私がうなづくと、彼女はすっと私の目の前に立った。
「あの、素晴らしかったです、舞台。佐和さん、とても良かったです。あの、父が…。私、小野の娘なのですが、父が生前にお世話になりまして有難うございました。この舞台も、本当は楽しみにしていたのですけれど。」
あっ、と思った。さっきのカーテンコールの時、小野さんが好んで座っていた辺りにまた空席があって、その隣に座っていたのはこの女性だ。
「突然なのですが、父が亡くなりまして…。亡くなる前に、形見分けというのでしょうか、親しかった方々に差し上げられるもののリストを作っていたんです。それで、佐和さんにも、もしご迷惑でなければ本を数冊、受け取っていただきたくて…」