「えっ、つまり……ばあちゃんの若い頃の知り合いなんだ?」
「調理師学校の学生時代ね。同じクラスに揖斐良平さんという優秀な人がいたの。お世話になった人でね。ありがとうを伝えたかった……でも、揖斐さんは何も言わず学校を辞めてしまったんだよ」
幸子は当時を思い浮かべるように遠くを見つめていた。
「目尻に大きな泣きボクロがなかった?」
祖母の問いに沙織は首肯した。
「そう……もしかしたら、本当に揖斐さんかもしれない」
幸子は大事そうに傘を握った。半信半疑に揺れる顔をしている。
祖母のこんな表情を、沙織は初めて見た。
「まっ、人違いかもしれないわよね。ふふっ、私ったら年甲斐もなく」
幸子ははつらつに振る舞った。ぎこちない空気を終わらせようとしているのが分かった。
傘を握ったまま、幸子が玄関に向かおうとした時だった。
バタン―。
床に大きく鈍い音が響いた。
沙織は祖母の方に目線を向けると、口を大きく開けたまま固まってしまった。
幸子が床に倒れていた。
【3】
軽い心臓発作だった。原因はやはり年齢によるところが大きいらしい。祖母の幸子は、現在は病室で安静にしている。命に別状がなかったことが救いだった。
幸子が倒れた大雨の日から、数日が過ぎていた。
「今日は大事な話がありまして……」
沙織と沙織の両親は、深刻な表情を浮かべる医師に目をやった。診察室の照明はうす暗い。医師の白衣は翳(かげ)りを帯びている。
「大事な話とは何でしょうか? 先生」沙織の母親が訊ねる。医師は沈痛な面持ちだった。
「検査を繰り返した結果……下咽頭(かいんとう)がんが発見されました」
香月一家は言葉を失った。がんという言葉に果てしない絶望を感じてしまった。カイントウという得体の知れない響きが、いっそう恐怖の片鱗を感じさせた。沙織はしばらく呼吸を忘れていた忘れていた。
医師からは早期手術をすすめられた。ただ、命の代わりに声を失ってしまう。その代償のことも丁寧に説明を受けた。ご本人とご家族でよく相談してほしいと、最後は香月一家に託された。
祖母が入院してから一週間後。
学校が終わった沙織は、一人で祖母の病室を訪れた。
バイタル装置が祖母の生命を管理している。弱りきった祖母の様子に、沙織は胸の底に重たいものを抱えていた。