「いや、亡くなる前に会ったよ。子供では俺だけ、飴を詰まらせた時に婆ちゃんに助けられたとか言ってたら、特別って婆ちゃんに会わせてもらえたんだ。そんなの誰も信じてなかったけど、婆ちゃんも会いたいって。はじめて家に入ったら、居間にでっかいピアノが置いてあって、コンクールのトロフィーとか、俳優と一緒にとった写真が飾ってあって。そこで本物のジャズ歌手だったって知ったんだよ。あの瞬間は驚いたな。本物に触れられてたんだって、子供ながらに思ったんだ。蒲田って撮影所があったから、結構ハイカラな高齢者が住んでて、婆ちゃんはそのうちの一人だったって後で聞いたよ」
一息ついた。
「その後、婆ちゃんに会ったんだけど。寝てて、細くなってて、顔色も悪くて、もう目を開けるのも辛い感じで。ショックだったな。父さんと母さんが俺の肩をしっかり抱いてくれてたんだ。婆ちゃんさ、俺が『発表会台無しにしちゃった』って謝ったら、左手を掛け布団から出してさ指を開いて、手のひらを上に向けたんだ。そんで目で俺に握れって言うんだ。俺がその手を握手するように握ったんだ。で、言われたんだよ」
「なんて?」
「俺の左手を弱々しく握り返してきてさ、あんなに歌えた婆ちゃんが小さい声で弱々しく言ったんだよ。『ああ、この手だ、この手だって』――すっごく優しい声だった。それだけ。それだけ言うと目をつぶったんだ。俺と婆ちゃんしかわからない手と手の感触だよ。ソレが最後。でも、音楽やりたいって思ったの、あの時が最初かな。その後で迷ったことないしな。婆ちゃん家から帰ってきたら、隆史が急に大人になったって、父さんも母さんも驚いてたの覚えてる。自分では変わったとは思わなかったし」
観覧車のゴンドラが降り場に着こうとしていた。妻は勇太を降ろす準備にかかっていた。
降り場なのに屋上、それが子供の頃には新鮮だった。もう妻を邪魔しないように、ここからは口で語らずに頭の中で想うことにした。
この屋上の、あの場所で空から舞い戻ったばかりの俺を見守ってくれた皆は、確かにココに居た。けれど婆ちゃんは家で寝ていた。誰かが俺の左手を握ってくれてた、とも思った。気絶してた俺の手はブラブラとしてたそうだ。
だから思う。発表会の日に家を出れなかった婆ちゃんだけど、きっと心だけはこの屋上に来てた。合唱に参加しようとしてた。人生の最後に大好きな歌を皆と歌うために。
だけど、不幸にして婆ちゃんは喉を詰まらせて死にかけた少年を見つけたのだ。そして少年を助けようと左手を離さないで捕まえていてくれた。
でも、重要なのはソレが事実であるか、妄想であるかの真偽じゃない。
プロである婆ちゃんが人生最後に素人な俺達と音楽を共有しようとしてくれた。そして音楽は楽しいんだよという強い想いを一人の少年に伝えてくれた。未だに俺の左手の暖かさとして心の中に残っている、その事実が重要だ。それが宝物みたいで、愛おしい思い出なのだ。
「そのおかげで俺はピアニストの由美とも、勇太とも会えることができた」