栗山は半ば眠りながらなんどもうなずいた。多摩川の夕焼けを見ながら死ねたらどんなにしあわせだろう。口元に微笑がうかんだ。目の前の小さな額縁のなかで妻と娘がわらっていた。
夫の良太がすがたを消してから丸一年がたった。アパートの立ち退き期限が二ヵ月後に迫っている。良太が家賃を半年滞納していた。妻の明子はそのことを知らなかった。昼間は羽田の町工場で働き、夜は蒲田西口の居酒屋で働いたが、子ども二人をかかえた生活に目いっぱいで、とても、未払いの家賃に追いつかなかった。
植村は月になんどか須田の家に立ち寄って、油を売ってゆく。
「家賃を滞納して、子どもを産ませた一年後に蒸発って、ひどすぎる」
須田の女房が、明子を知ったのは、植村をつうじてだった。
「ああいいよ。いいとも。女の子をあずかるくらいなんともないのさ」
須田がすこしバツのわるそうな顔で女房を見た。
「おまえはそういう女で、だからおれも、栗山に多摩川べりのあの3LDKのマンションを買わせちまった。明子さんが路頭に迷っても、あそこなら十分な広さだ」
それから茶をすすっている植村に顔をむけた。
「だがな。栗山も明子さんもその計画に気づいちゃいない」
「おまえが栗山に正直にいえばいいだろ」
「栗山は余命一年だ。死ぬのをわかっていて、明子さんを同居させるというのでは、おれが、栗山をひっかけたみたいじゃないか」
「ひっかけたんじゃないか」
「そういってくれるな。まさか、余命一年とは思わなかったのだ」
「知っていて、おれにあのマンションを斡旋させたのさ」
須田が目をしょぼつかせて首筋を掻いた。
女房が遠くを見ていった。
「栗山さんがよろこんで明子さん親子を迎えてくれる、というふうにならないものかしら」
「栗山があと30ぐらい若けりゃ再婚という手もあったろうに、死にそこないのジジィじゃなあ」
須田が植村を軽くにらみつけた。
「死にそこないのジジィはおたがいさまだろ」
「あの方、蒲田に帰ってきたのは50年ぶりといっていたわね」
「でていったのが中学生の頃だったからもっと昔になる」
「栗山さんを蒲田観光に招待して、そのツアーに明子さん親子をまぜるというのはどう?」
植村がポンと手を叩いた。
「栗山と明子さん親子が仲良くなれるかもしれない」
「それにしても、蒲田には、観光地がないなあ」
須田の女房が亭主の顔を見た。
「池上本門寺や羽田空港じゃだめ?」
「寺の境内や空港のロビーで2歳の女の子と6歳の男の子がたのしめるかい」
「あらま。忘れていたわ」
「なにをだい?」