「ねえ、ボーちゃんはうちの『サロン・キトー』に来た事って・・・」
しかしボーちゃんは、いつしか雑誌を開いたまま船を漕いでいた。ミチはそののんきな寝顔に、ちいさなため息をついた。
翌日、二人は昼過ぎに家を出た。
てっきり電車に乗ると思っていたが、ボーちゃんはアーケード商店街に入り、実家オカモトパンの前を素通りした。どうやら行き先はご近所らしい。二人はチェーン店のイタリアンや、老舗の激安靴屋など、新旧さまざまな店が左右に並ぶ通りをのんびりと歩いた。
そして早々に知り合いの時江ばあさんに話しかけられた。人のいい笑顔で相づちを打っているボーちゃんから、ミチはしずかに距離をとった。そして、特徴のないジーンズと白のコンバースを履いた彼を眺めた。雑多な商店街にしっくり溶け込んでいる。
もし蒲田を擬人化したら、ボーちゃんになるのかもしれない。
今年最先端のファッションに身を包んだミチは、ぼんやりとそんなことを思った。
ボーちゃんは、蒲田以外に住んだことがない。お姉さんが結婚してパン屋を継いだので、家は出た。でもマンションは実家のすぐ近くだし、職場もこの町の管轄である大田区だ。しかも彼の家から自転車で10分。ボーちゃんは、小学校の学区範囲内で人生のほとんどを賄っている男だった。
対してミチは就職と同時に家を出て、今は渋谷のサロンで働いている。この先も蒲田に戻るつもりは全くなかった。
どうして、ここを離れないの?と、一度だけ聞いたことがある。ボーちゃんは「理由がないから」と答え、ミチは「地元愛だねー!」なんて笑ったけれど、内心では乳離れしない子どもみたいだなと、呆れていた。
女も30を前にすれば先を考える。親がボーちゃんと結婚して店を継ぐことを期待しているのも、知ってる。ミチも一緒になるなら彼が良かったし、子どもを持つことを思えば、のんびりしてはいられない。だけどもしそうなったら、店を継いでも継がなくても、ずっとここで暮らす可能性が高くなる。
ミチはその想像に、ブルっと体を震わせた。
自分がものすごく小さな箱にギュウッと押し込められたみたいで、息が詰まる。まだ未来を限定したくなかった。今のサロンでも古株になってきている。そろそろ次のステップを踏んでみたい。現に同僚の中には、自分のサロンを持ったり、店長待遇で別の店へ移った子がいる。親友のハルカなど、去年の夏からカナダのサロンで働いていた。時々スカイプで話をするけれど、その目は日本にいた頃よりずっと輝いて見えた。
『こっちに来ればいいじゃん』
ハルカは簡単にミチを誘う。
『日本とは違う働き方ができるよ。お客さんだっていろんな人種が来るから、力がつく。合わなきゃ帰ればいいんだから』