雨は特に反応もせずサンドイッチ作りを始めた。
俺は一枚のレモンスライスを見た。あの時よりも心なしか厚くスライスされている気がしたが、この一枚がとても懐かしかった。
息子は瓶を取ってグラスに注いだ。慌てて注いだせいで泡ばかり立ってしまっている。泡がひくと肝心のコーラはレモンスライスまで届いていなかったのでもう一度はゆっくりと瓶を傾けていたのが可笑しかった。
飲み物が揃った所で妻が「乾杯」と言った。喫茶店でそう言える陽気な妻が俺は好きだ。散々、この店で遊んでいた俺が妻と息子を連れ立って、一緒に遊んでいた雨が淹れたコーヒーを飲むとは不思議な気分だった。まして、この店の内装は時の流れとは無縁のように変わっていないから一気に俺だけが年をとったように思えた。
「美味しいよ」
レモンスライス添えコーラを一口で気に入るとはやはり俺の子だ。
妻もコーヒーに口をつけて「美味しい」と先ほどのタコの口が嘘のよう。
俺も初めての『レイン』のコーヒーを口に含んだ。
香りが鼻を通り抜け、柔らかい苦味が口中に広がった後、すっきりとした酸味が残った。得意げにあのセリフを言っていた親父の顔が浮かんだ。
サンドイッチを載せた皿がふいに俺たちの前に置かれたので、俺は思わず雨を見上げた。そして、目が合ってしまった。
営業スマイルくらい浮かべても良いのに雨はにこりともせず、俺のカップを指差した。
「どうだい? 今日のは」
俺は思わず口をぐっと閉じて一文字にしてしまった。
あの時の親父たちを真似た俺たちじゃないか。雨は俺に気が付いていたのだ。
この一杯を淹れる今この時まで雨にどんな喜びがあり、苦悩があり、恋があったのか知らない。だが、俺の目の前には少年から一気に四十手前になった雨がいる。
きっとこの店を親父さんから受け継いだのだろう。そして、数十年経った今も『純喫茶レイン』と共に生きている。そして、親父さんの淹れた味、俺の親父が親しんだ味と比べることができないが、きっとこれが雨が作る『レイン』の味だし、自分の代になっても内装を変えていないのが雨らしい気がした。
雨が顔色一つ変えずに奥二重ながら細い目で俺を見て回答を待っている。妻も何も返事をしない俺を不思議そうに見ている。息子は、何も気にせずレモンをストローでつついて果汁を出そうとしている。そうするとぐっと美味くなるんだよな。
俺は黙ったままもう一口飲んで口を開いた。
「店主は不味いが、コーヒーはブラジルの豆を使っていて美味い」
もちろん下唇を突き出した。
雨が笑った。
「変わってねーな。銀ちゃん」
俺も笑った。
「美味しいの?」
息子が俺にコーヒーをせがんだのでカップの取っ手を向けてやった。
カップを手に取って恐々とほんの少しだけ口に含んだ。その途端に顔をしかめた。
「苦いだけじゃん」
息子からカップを取り返して俺はもう一口飲んだ。
「苦いのが美味いんだよ」
俺と雨は笑った。
雨がここにいてくれて良かった。前言撤回。俺の思い上がりだ。
同じ土地にい続けてくれる人がいて、それを訪ねることができるのは幸せだ。
次はいつ来よう。
俺には帰れる街ができた。