カウンターの中の男が雨であるならば顔を向き合わせることになってしまう。
「あそこ空いているよ」
妻が息子の手を引いて躊躇なくカウンターに座った。その際、当時と変わっていない木製の椅子が床を引きずる音が出た。そこでカウンターの男がこちらに気が付いた。
「いらっしゃいませ」
低く小さな声でそう言って男が振り向いた。
雨。
雨だ。
背の高さも体の大きさも俺の記憶とは異なっているが、間違いなく雨だ。親父さんの面影もある。
俺は目を合わせないようにしてカウンターに置かれたペラ一枚のメニューを手に取った。横目で雨が、新聞を広げているおっちゃんの所にトーストを運んで行ったのを見た。そして、競馬の大きなレースがあるのかおっちゃんと新聞を指差しながら話を始めた。新たにやって来たお客を放っておくあたりも親父さんに似たようだった。
「スパゲッティないの?」
息子がそう漏らした。妻も息子もメニューを確認して拍子抜けしたようだ。俺もメニューに目を落とした。変わっていない。コーヒー、紅茶と始まってコーラフロートで終わる飲み物の部。その脇におまけのようにトースト、タマゴサンド、ハムサンド、野菜サンド、ミックスサンドが書かれている簡素なメニュー。何も変わっていなかった。
変わったのは、雨がカウンターの中で働いていることくらいだ。
「いらっしゃいませ」
いつの間にかカウンターに戻って来た雨が、水とおしぼりを俺たちの前においた。
「えっと、コーヒーとタマゴサンドで。どうするの?」
俺はメニューに目を落としたまま注文し、妻と息子に尋ねた。
「僕、コーラとタマゴサンド」と息子が言うと「ダメよ。炭酸は」と妻が咎めた。
「たまには良いだろ。俺も……」
俺はとっさに口をつぐんだ。雨に俺だとバレるのが気恥ずかしかった。
妻がまた口を尖らせた。
「じゃあ、コーラとコーヒーをもう一つ。私は野菜サンドをお願いします」
「はい」
雨はメモを取ることもせずに調理に取り掛かった。俺に気が付いただろうか。
カウンターから気付かれぬよう何気ない風を装って雨を見る。妻と息子も興味深そうにコーヒーを淹れる雨を眺めている。
雨が年季の入った銀の細口ポットを手に取った。これも、もしかしたらあの時と同じポットかもしれない。ほんの少しだけ湯を注ぐとコーヒーの香りが立ち上った。
じっとコーヒーの具合を見る雨。俺たちもそれを見守る。しばらくするとフィルターから数滴が落下した。それが合図なのか「の」の字を書くようにしてお湯を注ぐ。俺は雨のことを大雑把だと思っていたので、こんな細かいことができているのが不思議だった。
フィルターのコーヒー粉が餅のように膨れ上がった。息子が「おぉ」と声を出したので、雨が息子を見て笑った。ただでさえ細い目がただの棒になってしまう笑い顔は変わっていなかった。
膨らみが萎んだところでさらに湯を注ぎ、俺たちのコーヒーが完成したらしく、二つのカップに分けて供された。
そして、栓抜きを開けた小気味良い音が一つと氷がグラスでぶつかるクリアな音が鳴って瓶のコーラが息子の前に置かれた。
「レモン入ってる。すごい」