妻は下町の生まれなので同じような感慨を抱いたようで嬉しかった。息子はというと「お腹空いた」とだけ言ってあまり興味がなさそうだ。まだ彼にとってはどこに行こうが、街は街なのかもしれない。それよりも一杯のコーラの方が嬉しい年頃だ。俺もそうだった。
二つ目の十字路をまっすぐ突き進むと『レイン』が右手にあるはず。
果たして、今もあるのだろうか。期待と不安をない交ぜにしながら二つめの十字路に差しかかかった。
「あった」
思わず声に出してしまった。
「どこ?」
俺は自分の記憶と違っていない『純喫茶レイン』の置き看板を指差した。
「え?純喫茶?喫茶店?」と妻ががっかりしたような声を出した。
「純喫茶と喫茶店の違いって知ってる?」
「知らないよ。そんなの。ここまで来て喫茶店?小学生の時にいた街って聞いたから、これぞ地元のみたいな店期待してたのに。蒲田には羽根つき餃子とかあるじゃん」
明らかに妻は不満そうだった。
「純喫茶はアルコールを置いてないんだってよ」
妻は頷きさえしなかったので、俺は無視して『レイン』の前まで行く。
「マジでここ? やってんの?」
「そうだよ。良いだろ。電気点いてるからやってるよ」
「えー。どうする」
妻は息子を盾にして回避しようとしているようだ。
「同級生の店なんだよ」
妻は口をタコのように尖らせながら「うーん……」と渋々了解をした。
ガラスドアから中を覗くといい年のおっちゃん、おばちゃんで賑わっているようだ。
雨はいるのだろうか。もしいたら何と声をかけようかと考えるともう一歩が踏み出せなかった
「お父さん、入ろうよ」
そうだ。俺はもう人の親だ。これくらいでビビってはいけない。息子の声に背中を押されて、ガラスドアを押した。
カラン。懐かしいベルの音が鳴った。
「いらっしゃいませ」という普通の反応はなかった。思い返せば、雨の親父さんがそれを言っていた記憶がない。よく客商売をやっていたな。それがないということは、親父さんが今も現役で働いているのだろうか。
店内を見やるとカウンターの中にエプロンを着た背の高い細身の男がおり、こちらに尻を向けている。どうやらトースターでパンを焼いているようだ。
雨か?
男の振り向きそうな気配を察したので、俺は逃げるように店内を見渡して空席を探した。相変わらず薄暗くて古ぼけている。ただその具合は、あの時と同じように思えた。もっとボロくなっていてもおかしくはないはずだが、まるで時間が止まっているみたいだ。
座席の配置も変わっていない。
三つある四人がけのソファ席はすでに埋まっていた。そこを二人か三人で使うのは許せるのだが、困ったことにくわえタバコのおっちゃんが、一人で優雅に新聞をテーブルいっぱいに広げて占領をしている。空いているのはカウンター席しかない。