「詳しいところまではあれなんですけど、『純喫茶』はお酒を置いていないというのが大きな条件と教わりました」
「へえ」
俺が興味ありそうと受け取ったのか早川さんが続けた。
「この前、『純喫茶評論家』の方のワークショップをしたんですよ。その方にお聞きしました」
「へえ。それまたニッチな」
二人で笑った。かくいう俺も他人様のことは言えない。同じくニッチな商売で口を糊している。俺は小さな出版社の記者をしており、これから木工アーティストにインタビューと実際に木工体験を行うのだ。俺の会社が出版している趣味系雑誌のワンコーナーで様々なアーティストを紹介するのだが、今回は諸々の紹介を経て面白い木工アーティストが神戸にいるということでやって来た。
神戸を訪れて地元である蒲田のことを思い出すとは、まさに故郷は遠きにありて思うものだろうか。色々と遠くに行って来たが初めての経験だ。
コーラで一息した俺たちは交流センターの中に入った。
このセンターは昭和初期に建てられ、元々はブラジルに移住する人たちが全国から集まり、諸々の準備をするための施設だったらしい。
ブラジルと言えば、再び『純喫茶レイン』に話が戻る。
俺の親父と雨の親父さんも同級生だったこともあり、親父に連れられよく店を訪れた。気兼ねがないのか半日をそこで過ごすこともあった。俺は雨がいれば店の片隅で遊び、いなければおとなしく漫画を読んで過ごしていた。親父はというとタバコを片手に隅々まで新聞を読み、雨の親父さんは他のお客さんの接客に勤しんでいた。二人はろくに会話をしていないように思った。
だが、俺には何が楽しいのか理解できない儀式が一つあった。
親父は夏でも冬でもホットコーヒーを注文した。親父が一口啜ると雨の親父さんがコーヒーカップを指差しながら「どうだい? 今日のは」と尋ねるのだ。そして、親父は「店主は不味いが、コーヒーはブラジルの豆を使って美味い」と下唇を突き出して答えて、二人で一笑するのだった。
これを店に行くたびにやっていたので、このやり取りを俺も雨もすっかり覚えてしまって、互いの親父の真似をして遊んでいた。
一方で、そのセリフに触発された俺は、親父のコーヒーを一口だけもらったことがあった。それが初めてのコーヒーであった。苦いだけだった。だから、いつも『レイン』ではコーラばかりを飲んでいた。無論、この店以外でも(それこそ先ほどのように)飲むことはあるが、今でも俺のベストコーラはこの店のコーラだ。
コーヒーに関して言えば、小学六年生に進級するタイミングで親父が転勤となり、引越してしまったので、『レイン』のコーヒーを飲むことはなかった。
そうか、俺は飲んでいなかったのだ。そう思うと無性にコーヒーが飲みたくなった。もちろん『レイン』で。
だが、今もまだ店はあるのか不安だし、雨とは引越し前に口をきかなくなったので、あれから雨がどうしているのか、今も小太りのままなのかどうかも知らない。
口をきかなくなった理由は俺のせいだった。