聞きなれない関西弁にユキオが声の主を見ると、エプロンをした若い男だった。そして、若い男が大きく口を開けて、驚いたのだが分かった。
「大将やないですか!」
「え?」
「あ、あの、入って下さい」
若い男に手を強引に引っ張られ、店の中に入った。
店の中も全く変わっていなかった。掲示されているメニューの短冊の雰囲気も同じだ。もちろんよく見ると醤油差しが違っていたりはするけれど。
「あ、あの、私、イグチって言います。覚えてはりませんか?」
ユキオはイグチの顔を見たが、思い当たらなかった。
「すみません」
「そりゃ、そうですよね。会社員やってた時、出張でこっちに来て、一度だけ『ぎょろ』に寄らせてもろたんです」
「そうなんですか。ありがとうございました」
イグチがカウンターの椅子に腰をかけた。この椅子も変わっていなかった。
「大将もおかけ下さい」
ユキオも椅子に座った。椅子を引いた時、床を引きずる音が懐かしかった。
「ほんで、『ぎょろ』で飲ませてもろたホッピーと湯豆腐がむっちゃ美味しかったんです。大将も気持ち良い方でしたし、女将さんも素敵で、感動したんです。それで、京都帰った後も、ずっと気になって、やっと遊びに来られたと思ったら、『ぎょろ』が無くなってはったんです」
「そうでしたか…。すみません」
「いえ、それでですね。むっちゃ考えたんですけど、俺が店を開こうって決めたんです。『ぎょろ』みたいな美味さには届かないかもしれへんけど、嫁はんが調理師の免許も持ってるんで、力借りて何とか出来るかな思て、店を開くことにしたんです。それで、店を開くなら、絶対にここやって決めて、ここに店開かせてもろたんです」
「そうですか…。店の名前『きょろ』ってのは?」
「はい。もちろん『ぎょろ』には届かない、足りないから濁点を抜いたって意味と、僕がいっつもキョロキョロしとるから、『きょろ』にしたんです」
ユキオが笑ったので、イグチも笑った。
「大将。勝手にすみません。店をそのまんま使わせてもろてます」
「それで、店はいつから?」
「明後日からです。今のうちからホッピー冷やしておこうって。すんません。焼酎は別ルートからなんですけど」
イグチは頭を掻いた。
「あ、すみません。ホッピー」
ユキオは前掛けから伝票を取り出し、ペンと共にイグチに差し出した。
「こちらこそ、すみません。あの、大将。良かったら、明後日、来てもらえませんか?」
イグチは受け取りのサインを書き終えた伝票をユキオに返した。
「あ、い、行けたら」
「よろしくお願いします」
ユキオはホッピーを置いて、店を後にした。
家に帰るとジェニファーが晩御飯を作って待ってくれていた。普段は、休みの前日しか、酒を飲まないのだが、今日は飲みたい気分だったので、自分の店で日本酒を買って来た。
ジェニファーが作ってくれていたのは、揚げ出し茄子だったので、日本酒にバッチリだった。ヤヨイはすでに寝てしまっていたので、ジェニファーにも勧め、二人で日本酒を飲み始めた。兵庫の本醸造酒であった。
ユキオは今日あった出来事ありのままをジェニファーに話した。そして、『きょろ』に行くべきかどうかを尋ねた。
ジェニファーはお猪口をぐっと飲み干した。
「サンニンデ、イコウヨ」