剛腕と恐れられ次の社長候補の一人と言われる大鹿常務は明らかに黒幕である。悪人である。ただ結果として、都合よく踊らされた自分はひとつの歯車に過ぎなかったのだ。それに気付かないことは迂闊であった。最初は組織人として淡々と指示されたことをこなしていた。だが裏交渉が順調に進んでいくにつれ、自分のなかに高揚感や陶酔感がなかったとは言えなかった。際限なく接待費を与えられ、会合場所である赤坂や青山の高級店に入り浸って得意になっていなかったか。これも怪しい。そして社内で、われこそは商社マンといわんばかりに肩で風を切るように歩いていたのは事実であった。知らん顔をする大鹿常務への恨みは消えることはないだろう。しかしこの感情を持ち続けていることに、果たして意味があるだろうか?
夏の日の夕方に気持ち良く酔いたいと思ってこの店に来たものの、考えれば考えるほどに、酔いは冷めて早崎の頭はクールに澄み渡っていく。
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静かだった店の奥のほうがすこし騒がしくなった。奥で飲んでいた学生たちが退場するようである。意外なことに男女2人ずつの学生は皆さわやかであり身なりもきちんとしていた。笑顔でさりげなく会釈して早崎の横を通り過ぎてゆく。いよいよ残った客は自分ひとりになってしまうようだ。
「早崎、おまえ早崎だよな」突然、張りのある低音の声が響いた。
「えっ増井、お前どうしてここにいるんだよ」
学生のグループの中にいた増井は手際よく学生達に精算をして出るように命じ、自分はここに残ると告げた。そしてカウンターにいる早崎の隣に座り「こんな時間にどうしたんだ、早崎」と言って肩をたたいた。
増井は明誠大学の経営学の准教授で、早崎とはS県立西高の野球部の同級生だ。ポジションはキャッチャー。野球経験の少ない監督がいたこともあり、実質的には増井がプレイングマネジャーの立場であった。野球部の中では成績抜群で、一浪して京都大学に受かっている。金融系の帝国総合研究所に40歳まで勤め、その後は大学で教職の道を選らんだ。
「おれも早崎と同じ酒にしよう。ようやく自分のゼミが持てるようになってね、今の学生4人はゼミの一期生だ」
「それはおめでとう、みんな賢そうな顔していたよ」
「ハハハ、お世辞でも嬉しいね。それで、なんでまた一流商社の管理職がこんな時間に独り飲んでいるんだ?」
「いや、実はもう管理職なんかではないんだ」
そう云って早崎はカバンから辞令を取り出し、増井の前に置いた。そして公正取引委員会の摘発に始まった今回のカルテル事件のこと、事情聴取のこと、留置所のことなどを親友の増井につつみ隠さず話した。話しながら自分の偽らざる気持ちを最初に増井に聞いてもらって救われたと思った。さらに話すことで早崎自身の心が少しずつ整理できはじめていた。
「そうか…」
増井はこういう時、相手の心のなかに土足で踏み込まない。昔からそういう奴である。考え込むように目の前の醤油の瓶を眺めている。
「早崎、もう一杯ずつ飲むか」、「ああ、そうだな」