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手錠は思った以上に冷たかった。そして人を威圧するかのように異様な光を放っていた。
手錠をかけられた早崎の両手の周りを警察官は慣れた手つきで白い布で巻いた。屈強な男に囲まれ、警察車両に乗せられる所までは覚えているのだが、そのあと留置所でどうやって一夜を過ごしたかはまるで憶えていない。突然誰かに暗闇に突き落とされたような感覚だけが残った。
留置所の生活にはさほど不便を感じなかった。ただ家族や会社の仲間を思うとき、おれは一体何をしているのだろうという行き場のない感情には苦しめられた。
留置所生活から解放された朝は文句のない快晴で、急に太陽の光を浴びた早崎は、軽い目眩を起こした。とにかく太陽が眩しかったことだけは強烈に記憶している。
梅雨明け宣言が発表され、くらくらするような暑さが続く7月下旬のことである。
早崎は勤めている桐友物産本社に久々に出社することになった。久しぶりに電車に乗ると車窓から見える月並みな街の景色も驚くほど新鮮にみえる。午後3時には一連の手続きはすべて終わり会社を出た。
早崎の自宅は国分寺だが、乗客もまばらな中央線に揺られているうちに、途中下車をしたくなった。スマホから妻へメールを送り、ひと仕事を片づけた安堵の気持ちもあった。自宅と会社のほぼ中間地点である中野で降りてみることにしよう。この街なら乾いた喉を潤してくれる酒場だってあるだろう。つまり早崎には、夏の暑さのせいでなく、どうしても飲みたい別の理由があったのだ。
JR中野駅の改札を出ると、早崎は北口のロータリーを越えて、目抜き通りをぶらつき、勘をたよりに一軒の居酒屋に入った。行き当たりばったりで入った店であるが、店内は小ざっぱりとしてつまみも充実している。そしてガラガラであった。時刻は午後4時を少し過ぎたころで、平日のこの時間に客がいないのも当然であった。
店長とおぼしき小太りの男が、細い目をさらに細めて、おしぼりとお通しの枝豆を運んできた。憎めないタイプの中年の男である。
「じゃあ、白のホッピーセット」
「ホイきた、ホッピー一丁!」
「それから、板わさと牛煮込みも」
「あいよっ、お料理は、板わさ、煮込み」
店長のよく通る声が厨房へ響く。白木の一枚板のカウンターは早崎ひとりだけ。カウンターからは見えないが、奥の団体席には、若者特有の会話で盛り上がる男女のグループが一組いるようであった。会話の中身からするとたぶん大学生なのだろう。
酒と板わさが運ばれてきた。手酌で焼酎入りのジョッキにホッピーを注ぐと、炭酸と氷の崩れる音がして涼しげである。少しだけうきうきした気分になった。居酒屋に入るのは2カ月ぶりである。
「こんな時でも、なぜか酒はうまいものだな」
元々は酒に弱い体質だった早崎だが、25年の商社マン生活の中でかなり飲めるほうになっていた。ただ日々の飲酒のせいで、腹回りが年々増加するのは困りものである。右手にジョッキを持ちながら、左手で刈り込んだ自分の坊主頭をさわってみた。これほど短くしたのは高校生の時以来だ。昔とちがって頭頂部がかなり薄くなっているのがわかる。きっと典型的な黄昏た中年オヤジの髪型にちがいない。早崎はさっきオーダーを取りにきた店長に急に親近感を覚えた。彼もまた髪の毛が細くちぢれて後退していたからである。そしてカバンから一枚の紙を取り出し、あらためて眺めてみる。