健一は、目の前に立つ強面の男に確認をすると、入店時より愛想よく「あるよ?黒にする?」と答えていた。黒が何のことがよくわかってないが、勝手にオーダーをした事に対し「ごめん」と健一に伝える。健一は「いいよー」と気にすることなく、オーダーを「黒」に変え、壁に貼られた串焼きのメニューを眺めている。そんな健一の横顔に、3週間ほど前に別れた田村の横顔が重なる。そうだ。3週間前まで、私の隣には田村がいた。健一より背は高いが、健一より歯並びが汚く、肌もごつごつとして汚い。視力のせいか目つきが悪く、いつもアイコスを吸っていて、どんな場所でも人より数db声が大きくて、酔うと口調が荒くなり、私だけじゃなく店員や周りの客にも絡みだす。飲みに行くと決まって喧嘩をし、時には手を出すこともある。やられっぱなしでは気が済まないので、私もやり返す。でも、家に帰ると結局なんだかんだセックスをして、翌日にはどちらからともなく謝る。どうして私は、あんな男と付き合っていたんだろう。顔も好みではないし、優しく気遣いができる男でもない。心の底から田村を愛していると思ったことはなかった。束縛は激しいし、ホステスという私の職業に対して理解もなかった。
「俺がお前を養うから、一刻も早くホステスなんかやめろ」
きっとこの言葉だけが、良くも悪くも私と田村との関係をつなぎとめていたのだと、今になってわかる。「俺がお前を養う」という言葉が、抜け出せそうで抜け出せない水商売の世界から唯一抜け出せる魔法の言葉のようで、もしかすると、私は田村本人よりその言葉に想いを寄せていたのかもしれない。それと同時に「ホステスなんか」という蔑んだ言葉を受け流すことができなかったのも事実で、結局婚約という名の約束が守られることはなかった。それに比べて。比べること自体おかしなことではあるが、田村に比べ健一は穏やかで優しいし、気が利く。特別色男ではないが、気を遣わずに私の汚い部分も含めてすべてを話せる。もちろん田村の事も話していたし、健一はずっと田村はやめた方がいいと反対していた。
「ハイホッピーでーす!」
ヤンさんがホッピーの瓶と、氷と酒?とマドラーが入ったジョッキを二つ置く。まるで、ハイホッピーという飲み物のようなヤンさんの発音だ。改めて、私はホッピーを飲んだ事が無い。ただ、このジョッキにホッピーを注いで飲むんだろうなというのは何となく想像がつく。少し剥げかけた白で書かれたホッピーの文字はとてもポップでどこか懐かしい。
健一は、私側にある黒い瓶と、健一側にある赤茶色の瓶の位置を並べ替えると、そのままの流れで、黒いホッピーを自らのジョッキに注ぐ。泡立った液体を、ジョッキに刺さったマドラーで軽く混ぜ合わせる。私も見様見真似で同じ動きをする。マドラーが瓶の中に差し込まれたのを合図に
「うぃー、お疲れー!」
と二人同時に声をかけ、グラスを当てる。歩き回ってのども乾いていたし、腹も減っていた。私は何のためらいもなく、初めてのホッピーを流し込む。飲む前はビールのような味を想像していたが、ビールとは別物だ。独特のコクがあって、喉越しも悪くない。炭酸の量も心地よい。ただ、少し焼酎がきつい。健一はぐびぐびとジョッキの半分以上を流し込むと、涙目になりながら「あー!うんめー!」と普段より高いキーの声を出す。私も負けじと「あーホッピーうま!」と飲みなれているような感想を添える。逆にわざとらしいか?