「焼き鳥が食べたい」
「うん、そうしよ」と喜恵がそう答える前に、拓郎は焼き鳥屋がある階のボタンを押していた。
「外の景色が見たいから窓際の席にしてもらおうよ」
「いやいや、トイレから遠いし、一番端の席だから、店員が来るのも料理が来るのも遅いって」
「あ、そっか。さすが拓郎、見てますねー」
喜恵は俺の言うことの大概を受け入れ、肯定する。それが二人の日常、二人の関係性。ただ、そうなったのにはちゃんとした経緯がある。
俺はそこそこ偏差値の高い大学を出て、そこそこ名が売れている企業に入社した。
入社3年が経ち、仕事もスムーズにこなせるようになった頃に、営業補助の派遣社員として入社してきたのが喜恵だった。
喜恵はそこまで美人というわけでも、お世辞にも仕事が出来るとも言えなかったが、他の女性より愛嬌があるという面において頭ひとつ抜きんでていた。
亭主関白な父の元で、「女に大事なのは謙虚さと愛嬌だ」と幼少のより刷り込まれて育った俺にとって、喜恵は父の教えを満たした女性だった。
しかし、喜恵はそれにしたってズレていて、そして無知だった。
「見て、とり炒飯だって!美味しそう、これ頼んでいい?」
「嘘だろ、いきなりご飯かよ。いや、全然良いんだけど、普通、最初はおつまみとか串系じゃないの」
「ああ、言われてみれば。焼き鳥食べる前にすぐお腹いっぱいになっちゃうか」
「そういえば、営業の人に頼まれてた経費の計算。あれ、喜恵はやらなくていいよ。経理にお願いしていいから。餅は餅屋に任せとけばいい」
「餅?なに、餅って?」
「……ええと、経費の計算は経理が専門でいつもやってくれてるでしょ、喜恵がやるよりスムーズだから経理に任せていいよってこと」
「それはわかってるよ。で、餅って何のこと?」
「ごめん、俺が言い間違えただけだから気にしないで」
この言葉を知らないぐらいで無知扱いをするほど俺も不遜な人間ではなかったが、「あれ?今の日本の大統領って誰だっけ?」
日本の歴史上、大統領がいたことなどない。
「福井って東北?ってか、東北って右だっけ?」
せめて方角の答えが欲しかった。
などなど、無知の実績を日々積み重ねたことによって、自らを博識な人間だとは思ってはいないけど、喜恵に対して発した通じない言葉(別段難しい言葉を選んでいるわけではない)の意味を丁寧に説明し、尋ねる質問に答えていると、自分自身も気付かないうちに喜恵に対して上から目線な態度になっていった。