ドアをそーっと開けて中を覗いてみた。どっと笑い声が聞こえてくる。7~8人の年寄が盛り上がっていた。水曜日限定高齢者専門キャバクラということらしい。
「タエさん、ホッピーの栓抜きお願いしまーす!」ジイちゃんの声が聞こえた。明るい声だ。今まで聞いたことがないような声だった。ホッピーは持ち込みだったのか。タエさんと言われた人も80過ぎのおばあさんだ。ホステスさんが着るような派手なドレスを着ている。
タエさんがカウンターの中からスプーンをもってきた。ジイちゃんは満面の笑顔で「ありがとう」と言って栓抜きではないスプーンを受け取った。別のおばあさんが「タエちゃんのご主人、ホッピーが好きなのよね?」と言った。タエさんは恥ずかしそうに頷いている。ジイちゃんは笑顔だ。僕は気づかれないうちに帰ろうと思った。
その時客が入ってきた。その人も高齢者だ。僕は急いでレジカウンターの中に隠れた。
ジイちゃんは人気者らしい。輪の中心にいてみんなを笑いに誘っている。
「年を取るって素晴らしーい!お前ら若造には分らんだろうけどな」
少し年下らしき高齢者に向かって言う。全員がぎゃははと笑った。
「若い女はつまらん! 80過ぎのキャバ嬢は最高!」
また全員がぎゃははと盛り上がった。何を言っても笑いが起きた。
僕は駅前のまん喫で時間をつぶし、8時半近くからキャバクラ夢の前で待っていた。ジイちゃんは時間に正確だ。早く帰ることも遅くなることもない。
「動く目標の観察」は気づかれないようにするだけでよかった。
ジイちゃんがタエさんと一緒に出てきた。僕には気づいていない。タエさんはドレスから普通の服に着替えていた。ジイちゃんがタエさんの体を支え労わるように歩き出した。
「こんな日は無理したら駄目だよ」とタエさんに優しく言っている。同じセリフを僕ら家族も何度ジイちゃんに言ったことか。
「あの日と同じですね、あなた」タエさんが言った。
「あの日と、同じだね」ジイちゃんが答えた。
二人は、ゆっくりゆっくり歩き始めた。
僕はいつだったかジイちゃんから聞いたことがある。
「ボケというのは神様のくれたプレゼントなんだ」
死の恐怖から逃れるために神様は年をとった人間に「ボケ」というプレゼントを用意したのだと。
「だからジイちゃんがボケても、嫌わんでくれな」
と僕に言った。嫌わないよジイちゃん。
天気予報の言った通りちらちらと雪が落ち始めた。タエさんは掌に降る雪を受け止め「夢よ、ほら」とジイちゃんに見せた。「そうだね、夢だね」とジイちゃんが答えた。
タエさんの掌の雪はすぐに融けていった。
「なくなっちゃった、夢」
ジイちゃんはタエさんに傘を差しだし、2人は一つの傘で寄り添うように歩き始めた。後姿が仲良く年を重ねた老夫婦のように見えた。
「バアちゃん、怒ってないよね」
僕は二人の少し後ろを、ゆっくりと付いていった。