すっかり目が覚めてしまった俺は、部屋のドアを開けて廊下に出た。階段脇の妻の部屋の前で立ち止まって中の気配を探ったが、寝息すら聞こえず静かだった。なるべく音を立てないようにスリッパを脱いで階段を下りた。
リビングのドアを開けると白み始めた朝の光が差し込んで薄らと明るい。
ソファに腰を下ろすと全身からもやもやした気持ちが込み上げる。
家を建ててから二十年余り、今更あの時に戻れる訳ではない。麻由子が思う自分の部屋を作っていたら今の現実も違うものになっていたかもしれない。年に一度はと約束したホッピーに行かなくなったのも思い返すと子供がいたからと言うだけの理由ではなかったはずだ。こんなはずじゃなかったと思うと柔らかいソファにどんどん深く身体が沈んでいく。
そうだ、牛乳。喉の渇きを思い出したように牛乳を取りに玄関へ向かった。
ドアのチェーンに手が触れるとその小さな音が静かな家の中に響いた。
(カチャ)一瞬動きを止めて玄関の真上にある妻の部屋を見上げる。
床の軋む音がしないかと耳を澄ましてみたが、家の中は静寂に支配されていた。安堵の息を、音を潜めて吐き出してから慎重にドアチェーンを外し玄関ドアを開いた。
視線をゆっくり右下に向ける。いつもと同じ場所に牛乳受けの箱が置かれていた。片足でドアを固定して箱の蓋を開け牛乳瓶を引っ張り上げた。
と、滑った。
(ガ、ち、ゃ、ー、ン、ッ)
牛乳瓶が玄関外のポーチに落ちていく。まるでスローモーションのようにゆっくり砕けた。
(うやぁぉぉ、)
飛び起きた俺の目に、白い液体が広がっている床が見えた。口の周りに牛乳の白い髭を付けた末娘の幸が近づいてくる。泣く寸前、口をへの字に曲げた顔をして。
「パパ?大丈夫?」
あと一歩で俺の上に乗っかろうとしていた幸を抱き上げた妻の麻由子が、心配そうに言って俺の顔を覗き込んだ。
「麻由子・・」
「えっ、何?どうしたのパパ?、元ちゃん?」
放心状態の俺の肩にそっと麻由子の手が触れた。温かかった。
「麻由子、部屋、麻由子の部屋作ろうな」
口から出た自分の声に、どこからが夢だったのか?とやっと正常な思考回路が動き出した。
100本ポッピー。奇跡だ。
我が家は、まだ建っていなかった。
パジャマのまま、麻由子が入れてくれたコーヒーを啜っていて思い出す。
「あっ、ママ今度ホッピー行かないか?子供たちも連れて。坂下さんにも随分会ってないだろ?どうだ?」
もう一つ大切な約束を忘れていた事を。
「ほんとっ!嬉しい」