先月六月八日、結菜は二十三歳の誕生日を迎えた。父親の仕事の関係で幼少期をパリとロンドンで過ごしていたこともあり、フランス語、英語ともに堪能で、長いことバレエやピアノといった習い事を続けてきた生粋のお嬢様だ。実家は神奈川県の葉山に建つまっ白い豪邸で、これまで何不自由ない生活を送ってきた。
小中高一貫のお嬢様学校を卒業して、現在、都内の大学院でフランス文学を専攻している。だが、困ったことに、東京で一人暮らしを始めてから、世間とのズレを感じることが多くなり、つい先日も大手商社に勤める二つ年上の彼氏と喧嘩をしてしまった。
友達に誘われた飲み会で知り合い、彼の誠実な人柄に惹かれて付き合い始めて、およそ三年。一流レストランで上質なデートを重ねてきたが、結菜に合わせてかなり無理をしていたらしい。誕生日直後のデートでは、ぶらり月島のもんじゃ焼きに連れていかれた。
「これからはお互いに片意地張らず、もっと気楽にお付き合いしていきたい」
と言われたが、お嬢様育ちの結菜としては別に意地など張っておらず、三ツ星レストランも懐石料理屋も通い慣れた馴染みの店だった。
鉄板の上の食べ方がわからない明太子もんじゃをコテでつつきながら、ふいにフランス人と結婚した姉の言葉が思い出された。
「男はね、女を喜ばせてこそ価値ある生き物なの。男が女に尽くすのは礼儀なのよ。レディーファーストができない人はダメよ。いい? 急に態度が冷たくなったり、お金を出し惜しみするようになったりしたら、要注意よ。愛想をつかされたと思ったほうがいいわね」
(ああ、どうしましょう。弘道さんは私に興味をなくしてしまったんだわ。でも、いったいどうして? 誕生日にもらったダイヤモンドリングをはめてこなかったから? それとも、他の子を好きになっちゃったのかしら?)
混乱した頭に、次から次へ疑問が浮かんでくる。でも、素直に聞くことはどうしてもできなかった。本心を知るのが、怖かったのだ。代わりに口から出てきた言葉ときたら、心配を覆い尽くしたこんな怒りのコトバだった。
「何よ、急にひどいじゃないの。私のこと、ばかにしているんでしょう?」
結菜は吐き捨てるように言って、そのまま乱暴に席を立った。自分の荒々しい口調に驚き、鼓動が速まっていく。弘道が焼いてくれたもんじゃには、一切口をつけなかった。
弘道は何が起きたのかわからないといった様子だ。狐につままれたような顔をして、呆然と佇むばかりだ。
振り返ることなく店を飛び出したあと、追いかけてきてくれるかもしれないという淡い期待を胸に抱いて、わざとゆっくり歩いてみたものの、聞き慣れた逞しい男の足音が追いかけてくることはなかった。
両親が用意してくれた一人暮らしには十分すぎるほど広い1LDKマンションのオートロックを開けるなり、結菜はワンワン声をあげて泣いた。幼女のように泣きじゃくった。涙は堰を切ったように、とめどなく溢れ出てきた。
これまで毎日欠かさずあった連絡は、ぱたりと途絶えた。
あくる日、結菜は居ても立ってもいられずに近くでカフェを営むつぐみさんの元へ走った。
大学から歩いて十分ほどの距離にあり、北欧家具で統一されたナチュラルで柔らかい雰囲気のカフェ。ゼミで利用するうちにすっかり気に入ってしまって、今ではプライベートでもふらりと立ち寄るようになった。本一つ持って、ゆったりくつろぐことができる。
店主のつぐみさんはノルウェーやスウェーデンなどで長く海外暮らしをしていたせいか、かなりサバサバした性格で、頼れる姉御的存在だ。
弘道とのことを包み隠さずすべて打ち明けたら、ちょっぴりあきれたように首を竦めてみせた。
「高級レストランでしかデートしたことがないなんて、今どきありえないわよ。しかも、ハタチそこそこで……、信じられない」
「そうかしら……」