ガラス窓はいつも曇っていて、視力が落ちたのかなと思わせるほど中の様子は、ぼんやりとしていてみえにくい。ウナギの寝床みたいに奥に長いその店は、ときおり白い上っ張りの制服の男の人が幾人かでゆっくりと歩きながら仕事しているのが、わかる。
通りに面した店の前には、くるくると回るサインポール。赤と青と白のレジメンタルストライプを見ていると、めまいがしてきそうになった。
時折、お客さんのおじさんがそこの扉から出てくる、短くなった頭の後ろを撫でながら。
たくさんの美容院激戦区にあってここは唯一の理髪店。<バーバー三宅>。
湯気の中にすっぽり囲まれた感じのその店の窓の向こうには、うっすらと人が動いてフロアの真ん中あたりで、足の運びが途切れる。たぶん作業の動線がそこで止まってしまうんだろう。
そこの店の人影が動くと少し安堵しながらも、どきりとする。鼓動が速くなるのを合図にわたしはそこを足早に立ち去る。中に居る人影がいつもみたいにフロアの真ん中あたりで、止まらずにそのまま突き進んできて、曇ったガラス窓をやわらかなタオルできゅっきゅっと擦って、何か御用ですか? ってそこの店主らしき人にとがめられそうな気がして。
この場所に来るたびにやめようと思う。でも何度もここに来てしまう。
シャボンの匂いと消毒液に薄められた蒸しタオルの匂いがその店のどこからかしてくる。海に囲まれていつも潮の匂いが満ちているその場所の風とまじりあう、その匂いはほんのすこし郷愁までも連れてくるから、立ち止まりたい感情に駆られてしまう。
背中から誰かが近づいてくる気配にも気づかないでいたら、思いっきり頭をくしゃくしゃに撫でられた。
「おかえり」
一瞬、撫でているのはハルヲさんかと思った。
大学に入るまでずっとわたしを育ててくれた義理のお父さんだった人。大学進学と共に家を出て、久しぶりに帰ってみたらハルヲさんはいなかった。下宿することに反対されていたのだけれど、いつまでもお父さんでいてもらうのも悪いのかなって思ってわたしは、アパートに住むことにした。いつも馴染んでいたその部屋は、ずいぶん長い間留守にしているような名残りがその中にあった。そのままそっとしておくのもよかったけれど、部屋を片付けていたら、空っぽの気分がこみ上げてきて、探そうと思ったのだ。
ハルヲさんのことを。
数少なかったよく遊びに来ていた飲み仲間の友人、三田さんに聞くとこの理髪店に勤めているらしいよ、って教えてくれたのだ。
でも、今わたしの頭を撫でているのは、太郎だった。頭頂部あたりに嗄れた声が響いていきた。
「後ろ姿が栞やなって思って、なんかここでいいことやってんの?」
太郎の顔を見ていたら、感傷に浸ってる場合じゃない気がしてきて、帰ろう帰ろうって太郎の指をとって通りを急ぐ。
「なになに? 隠し事? あの店って散髪屋やちゃうの? 散髪したいん?」
後ろ髪を引かれる形でその店が気になって仕方ない太郎は振り返る。
「なんかわからないけれど、気になるの。立ち止まりたくなるの」
ということにした。
「へぇー」