言えないという訳ではなかったが、私のすぐ後ろに別の客の背中がある。近すぎる。悩みを打ち明けるには他の客と近すぎた。
躊躇している間に、背中の客がジョッキを片手に私たちのドラム缶へやってきた。そして突然叫んだ。
「かんぱ~い!」
相当酔っているようだ。横沢さんとも顔見知りらしい。同じドラム缶で一緒に飲み始めた。なにやら話込んでいる。私はホッピーを飲みながら、ここで相談するのは止めようと思った。
ホッピーの口当たりの良さに、私も一気に流し込む。そして「中ひとつ!」とジョッキを上げた。横沢さんが「おっ」という顔でこちらを見た。
暫くすると、背中にいた男がしくしくと泣きだした。飲みながら泣き、泣き
ながら飲んでいる。横沢さんは黙って肩をとんとんと叩いていた。
「お嬢さん!」
男が、突然私に言った。
「今日会社が倒産したんです!」
大声だった。店内にいた客が一斉に男を見た。私はどう言っていいのか分からず、ジョッキを持ったまま、きょとんとしていた。
すると、店内の客がぞろぞろと男の周りに集まり始めた。ジョッキ片手に集まってきたのだ。
男は相変わらず飲みながら泣き続けている。集まった客は一人ずつ男の肩をトントンと叩いた。そして元のドラム缶へ戻っていく。何も言葉はなかった。ただトントンとするだけだ。
10人ほどいた客のトントンが一通り終わると、男が横沢さんに酔った声で叫んだ。
「横ちゃん、頑張れよ!」
〝いやいや、おまえが頑張れだろ″
と私は思った。横沢さんは、うんうんと頷いてホッピーを飲んでいた。
それからしばらくして男は泣き疲れたのか、ホッピーを飲み干すと「じゃあ」と短く言って帰っていった。横沢さんは「またな」と声を掛けた。
「会社辞めたいのか?」
男が帰った後、突然横沢さんが私に言った。
「分かってたんですか?」
「秋山を見てれば分るよ」
「で、どう思いますか?」
「なにが?」
「辞めた方がいいと思いますか?」
「秋山の人生だろ、俺に決めさせるのか?」
何も言えなくなった。横沢さんは分かっていたのだ。辞めろとも言わなかったし、辞めるなとも言わなかった。ただ「お前はよくやっている」と言った。
ホッピーが喉を流れる。涙がこぼれた。ぽたぽたと落ちた。ジョッキの中のホッピーは、涙の味がした。
もう深刻な話は止めようと思った。仕事は半人前でも、懸命に取り組んでいることは認めてくれていたのだ。嬉しかった。
いつの間に頼んだのか、おでんと卵焼きがドラム缶に乗っていた。この店では二人で2000円も使わない。
それから7年後、横沢さんは独立し自分の事務所を開設した。私は結婚、妊娠を機会にフレックスタイム制に切り替えた。今では小さな現場を任せてもらえるようになった。
銀座のあの店は、今は別の名前に代わっている。でも店内はあのままだ。あの時のまま、マスターの心意気と一緒に時が止まっている。だからいつ行っても懐かしくて嬉しかった。
子どもが生まれてから外飲みすることは少なくなったが、数ヵ月に1度子どもを実家にお願いして、夫と飲みに行くことにしている。私の大事な息抜きだ。
もちろん「銀座でホッピー♫~」と決めている。