もちろん、魔法は毎日は使えない。百点を取った日、子どもの頃は気にしていなかったけれど、今思うときっと父のボーナス日、そして結婚記念日。家族にとって特別な日にだけ、母がどこからともなく魔法の粉を取り出して、私たちに授けてくれる。湯船にお湯が溜まるまでの間、子どもの自分にはよく分からないのに、ぎっちり書いてある効果・効能をふむふむと熟読し、パッケージの味のある温泉名や挿絵をみては、行ったことのない本場の温泉郷に想いを馳せた。何の変哲もない、いつもの水道の蛇口から出てきた透明なお湯を、どんな色に変身させて、どんな香りで風呂場を満たしてくれるのか。大いなる期待で胸を躍らせながら、頭の中では完全に、空想上の温泉郷の入り口に佇んでいた。
「お風呂湧いたわよ!」
という母の声は、心なしか弾んでいるようで、明るく家中に響き渡った。
待ってましたと言わんばかりに、飛び上がって競うように服を脱ぎ捨て、我先にと風呂場へ向かう。ドキドキしながら、弟と奪い合いながら、湯船に入浴剤を振り入れる瞬間といったら!みるみるうちに、無色透明だった日常を、白濁させたり色付けたりと、鮮やかな非日常へ導いてくれた。あるある話かもしれないが、個包装に残った粉までをも全て余すところなく溶かそうと、袋に少しだけお湯を入れて軽く振り、まるで本物の温泉が袋の中に誕生したかのような、湯船の倍以上に濃密な色や香りに恍惚としたり(小人になって中に飛び込みたいと思っていた)、その濃厚な魔法の溶液を、もったいぶりながら少しずつ湯船になじませていったりするのがこの上なく好きだった。入浴剤をただ入れるだけでは終わらない。人間の本能がそうさせるのか、単なる子どもの思いつきなのか分からないが、入れるまで、そして入れた後までも、一つ一つが特別で、そしてとてつもなくわくわくするのだった。これこそ純粋で純真な、プライスレスな家族の思い出だった。
こうやって思い返すと、子どもの頃は他愛の無いことでももの凄く刺激的に感じたものだった。お風呂に家族と入ったことなんて、もうほとんど覚えていないのに、入浴剤という魔法の粉のおかげで、あの頃の匂い、風景、感情、夢までも、まざまざと思い出されるのだ。
母は、こんな日が訪れることを予見していたのだろうか。いや、まさか。
そんな訳で、初めて我が家でも魔法をかける瞬間がやってきたのだ。まだ小さい娘に説明する、夫の嬉しそうで得意げな顔。見ているこちらが吹き出してしまいそうなくらい、二人とも真剣な顔をしている。
いざ、魔法の粉を振り入れる瞬間。これこそが「家族」なのだと気づいた。当たり前のような日常が、瞬間瞬間繋がっている。喜怒哀楽。もしくは、その感情すら感じる暇もないくらい、どこからやってくるのかよく分からない焦りや不安に急かされ追われる日々。でも、魔法の粉を家族みんなで振り入れる瞬間のまろやかで満たされた幸福。小さいようでいて心のニッチにぴったりはまる、さりげない思いやり。みんなで向かい合って、これ美味しいねと言い合えるあたたかな食卓。隣に座ってバラエティー番組を観て、同じポイントでおなかがよじれるほど一緒に笑う休日。この一つ一つを、いつの間にかさらっと流れてしまいがちな瞬間を、共に寄り添い、支えたり支えられたりして生きるのが家族なのだと、この時はっきりと悟った。夫は空気。つまり私にとって、絶対になくてはならない、かけがえのない存在なのだと。