9月期優秀作品
『父の庭』おおのあきこ
美咲の父が自転車で転倒して脚の骨を折り、病院に担ぎこまれたのは、そろそろ梅雨に入ろうかという6月はじめのことだった。幸い手術は免れたが、80歳という高齢もあり、約1か月の入院を余儀なくされそうだった。そのあとさらにリハビリ施設で1か月近く過ごすことになるという。
「じゃあ、2か月も家に帰れないのか!?」
医者の話を伝えると、ベッド上の父が不満を爆発させた。
「そりゃそうよ。骨が折れてるんだから。自転車は危ないって、あれほどいったじゃないの。歳を考えてよ、お父さん」
美咲はつい責め口調になっていた。父は寝ているだけでいいかもしれないが、自分はこれから2か月間、空き家になる実家の様子見や見舞い等で振りまわされることになる。兄の渡もいるにはいるが、フリーライターの美咲は時間が自由になる点をいつも利用されてしまうのだ。そんな状況が予測できるだけに、父に同情している余裕はなかった。
お母さんさえいてくれたら――美咲はため息をもらした。
父より10歳も若かった母だが、3年前に胃がんと診断され、その数か月後にあっけなく逝ってしまった。父の介護が必要になっても若い母がいるから大丈夫――そう安心していたのに、世の中思い通りにはいかないものだ。
「じゃあ、スーパーまで歩いていけっていうのか?」
父がうらめしそうにいった。いちばん近いスーパーまで徒歩10分ほどかかり、それはそれで老齢の身にはつらいのだろう。
「前からいってるけど、そろそろ介護認定を受けて、ヘルパーさんを入れたらどう?」
父はふんっと鼻を鳴らした。「他人を家に入れるなんて、まっぴらだ」
美咲はむっとした。「でもね、帰ったらまたひとりで暮らすのよ。そんな状態でやっていけるの?」
父がいっそう険しい表情をした。「おまえか渡たちが戻ってくればいいじゃないか」
またその話か……美咲はうんざりした。
「わたしは無理」
「どうして?」
「どうしてもっ」ついつい言葉尻がきつくなる。
35歳の美咲はいわゆるバツイチだ。親の猛反対を押し切って大恋愛の末に結婚したものの、ほんの2年後に相手の浮気が発覚して別れたのだ。10代のころからなにかと親に反発してきた美咲だが、その一件以来、ますます心の溝が深まっていった。それでも母とは比較的穏やかな関係を保っていたのだが、口を開けば文句ばかりの父とのあいだには、いまだ大きなわだかまりが残っていた。
幸い、暮らしていたマンションを慰謝料として受け取ったので、住む場所には困らずにすんだ。美咲にとって、自宅マンションは唯一息をつける場所だ。そこを出て、この父と一緒に暮らす気にはなれなかった。
一方、兄の渡は両親の認める娘と結婚し、一男一女をもうけて幸せな生活を送っていた。しかし渡も偏屈な父を嫌い、母が亡くなってからは実家によりつこうともしなかった。同じ東京に住んでいるにもかかわらず、妻の佳子と子どもたちを実家に連れてくるのは、盆と正月のみだった。
「じゃあ、渡たちは?」父が憮然としていった。