8月期優秀作品
『母の好きだった場所へ、もう一度』中村美香
「ごめんね。残念だけど、今回はやめておくわ。せっかく誘ってくれて悪いけど……」
母が、静かに、電話を切った。
「光代さんたちとの旅行、今年は行かないの?」
「うん……。どうしても、こっちが気になっちゃうからね」
そう言って、右手で左胸の辺りを軽く触って、台所に戻って行った母の表情は、私のところからは、笑っているのか、泣きそうになっているのか、よくわからなかった。追いかけて行って、もっとしっかり話を聞いた方がいいかもしれないと思ったけれど、3歳になる娘の結衣が、ままごとの相手から開放してくれなくて、仕方なく、そのまま見送った。
母が、乳がんだとわかったのは、今から、2年前のことだった。お風呂で体を洗っていた時に、左胸に違和感を覚え、婦人科を受診したら、精密検査を勧められたらしかった。
「しこりではないのよ。だけど、なんとなく変な感じがしたの」
乳がんには、一般的に知られている、コリコリとしたしこりがあるものの他に、しこりを作らないものもあり、母も、その、しこりを作らないタイプの広範囲にわたる石灰化を伴う乳がんだとわかった。石灰化自体は、単に、乳腺組織にカルシウムが沈着しただけのものらしいけれど、母の場合は、残念ながら、悪性だとわかり、手術することになった。
「早期発見でよかったわ」
初めは、努めて明るく振る舞い、そう言っていた母だったけれど、石灰化が広範囲にわたるため、乳房を温存することはできないとわかり、左胸を全摘することに決まった時には、さすがに、ショックを受けていたように見えた。
「お願いがあるの……」
手術の前日に、母に頼まれたのは、上半身の写真を撮っておいてほしいということだった。娘とはいえ、私自身、恥ずかしかったけれど、それを、私に頼んだ母の気持ちを考えたら、照れずに引き受けようと決心した。
昼下がりに、カーテンを閉めて、和室で撮影した。私に頼んでおきながら、やはり、恥ずかしいのだろう、母は、私から目を逸らしたまま、服を脱いだ。60歳の母の胸は、悲しいほど、白かった。こんな綺麗な胸の中に棲みついているという、がんの存在が憎かった。長い間、一緒に過ごした体の一部、女の大切な部分との別れを、母が噛みしめていると思ったら、ファインダーから覗いた母の姿が、にじんで見えた。今まで、無意識に避けてきた母の女の部分に触れて戸惑いを感じながらも、絶対に美しく撮っておくんだと強く思い、夢中でシャッターを切った。
「しばらく、帰れないから、家のこと、よろしくね。時々、お父さんのことも見に来てあげて」
自分が大変な時なのに、父のことを気遣う母がいじらしかった。だけど
「うん。わかったよ。がんばって」