8月期優秀作品
『ゆくすえ』吉倉妙
(近頃なんかおかしいぞ)と健介は思う。
上手く説明できないが、何とも妙な気分が続いている。脱力感とでも言うのであろうか。
ただ何となく息をしている――そんな感じの毎日なのである。
もともと感情の起伏の少ない方ではあったが、起伏もなにも、最近は、喜怒哀楽といった基本的な感情が湧き上がってこない。
朝、冷たい水で顔を叩くように洗ってみても、これが一日の始まりだという実感もなく、鏡の中では、無表情の自分がこっちを見ている。
寝覚めの悪さだけが、唯一、自分自身を感じる瞬間で、それ以外は、自分の日常が他人事のように思えてならない。
通勤の満員電車の中など、人混みに揉まれている時が、虚無の境地の最高峰で、瞳孔が開いているだけの、停止した思考回路。まばたきを忘れた自分がそこに居る。
六歳と四歳になる息子は可愛いが、健介が仕事に向かうのは、家族のためというより、世の常に従っているだけのようにも思え、そんな自分に辟易している。
それでも時折、子供中心に動いている空間の中で、健介は自分と同じ類の人を、肌で見つけることがある。
先々週は、家族で出かけた水族館で、幼い女の子の手を繋いだまま、漂うクラゲをじっと見ていた父親の後姿に、物言わぬ味方に出会えた気分になった。
そんな健介の視線の先を追いかけて、そこに健介と同じ空気を見出したのか、
「あの人、あなたに似ているわね」と妻の美咲が健介の隣で呟いた。
その声に、意味深な響きが混じっているのを感じて、
「あの人って誰?」とも、「どういうところが?」とも聞かなかった健介。
そこから幾重にも派生していく色々を察知し、敢えて言わない、敢えて聞かないという暗黙のルールが、二人の間でいつの間にか出来上がっている。
後からなので何とでも言えるが、健介は最初から、そういう美咲の淡々とした性質を見抜いていたのかもしれない。
体温の低そうなところ。肌が薄く血管が透けて見えるところ。顎のラインで揃えたボブがよく似合うところ。そして何より、口数のあまり多くないところ……。
それら健介が惹かれた印象は今も消えることなく健在で、かつ、一人遊びを楽しむ少女のような部分も美咲には残っている。
下の子が保育園に入ってからは、平日の日中、近くのファミレスで働き始め、「久しぶりの制服だわ」と無邪気に張り切り、振込みされる給与用に作った口座を「微々たる貯金」と称してワクワクしていた。
その「微々たる貯金」に初めて給与が振り込まれた日。