押し寄せ満ちる心地よさに震えながら、私は夢中になって数珠を手繰り、玉を次々に覗き込んだ。祖父母が居て、両親も居た。初めてつくった雑誌も、チームのメンバーも、大学のキャンパスから幼稚園のブランコまで、ぱちんぱちんと記憶が蘇る。ハナを撫で、シマコと歌う。数え上げればきりがないほど、現世から持ってきた思い出を抱えていたようだ。神様は退屈そうに、しかし笑顔のまま、私が全ての思い出を確認し終えるのを待っていてくれた。
「リンゴアメさん。もう、大丈夫でしょう?」
命の終わりには走馬灯のように記憶が蘇るというが、それは、もしかするとこの時を指すのかもしれない。生きた証を確認するために、ありったけの思い出を確かめる。リンゴアメとなった私は、かつての人生をなぞり、もう一度生きたのと同じだけの感慨に見舞われていた。
「大丈夫ですね」
私の思い出は、私の残した、愛する人たちと共にあるという。
神様の理屈に従えば、名前も、思い出も、私が置いていくことで、彼らは私を忘れずにいることが出来る。私と過ごしたささやかな日々を噛み締め、私を思い、私を思って泣き、私を思って笑うだろう。早くに両親を亡くした私が、かつてそうであったように、残された者たちも、私の死を受け入れ、己の人生に重ね、生きていく。私の手放した、或いは、私と残した幾つかの思い出を振り返り、私の生きた人生を、愛おしく統括してくれる。
きっと、そうだ。
「私は、この素晴らしい人生を、思い出を、託していけば良いのですね」
思い出も、捨て行こう。
生きた証は、今、生きている者たちに託して、行こう。
そう決めたら、心に、ぽっと明かりが点いた。
右手に連なる玉が消え、光と化して私を包む。内に外に、光のあふれる世界は、ただ清く涼やかだった。
5
死んだ後、私には何にも残りはしなかった。
お金も、名前も、思い出さえも。何一つ、持っていけるものはなかった。
だけれども、声を大にして言いたい。私が死んでも、私の大切にしていた人たちには、全部残る。全部、残せる。数か月後も、数年後も、数十年後も、亡くなった人のことで泣いたり笑ったり出来るのは、死んだ人間が天国に行く途中、神様に脅されて、全部、現世に残してくれたからなんだ。ずるい神様のせいで、納得して、全部捨てて、残せた。中には、離散するしかなくなる遺族もいたりするらしいけれど、それは、がっちり札束の詰まったカバンを右手に握ったまま、自分の名前を大事にし過ぎて、思い出を手放せずに、神様の腕力に賭けてみることにした結果なのかなとも思ったりする。だけど、その人にもいつか、「もう良いか」と、全部を放る日がやってくる。たぶん。
神様に新しい名前をもらって、天国のドアが開いて、そうすると、地上にはまたその人のことを思い集う機会が生まれて、誰かがその人の人生を思い出し、慈しむ。
天国の扉が開く時、幸せそうに笑う小指の短い男と赤毛の女の子の様子を見納めた私を、神様は、力いっぱい抱きしめてくれた。