いやいやいや。急カーブで車両が揺れ、汗ばんだ額が窓ガラスに押しつけられた。息子はもう物言わぬ赤ん坊ではない。わからないなら直接聞けばいいだけの話で、昨日夫に怒鳴ってしまったのも連絡帳を3ヵ月も見ていなかった自分が結局は後ろめたかったわけで、つまりは逆ギレもいいところだ。私はゆっくりと息を吐き出し、今日のスケジュールを思い浮かべる。校了前の週末だが山は越えたし、夜の打ち合わせをみーちゃんひとりに任せれば18時過ぎには上がれる。
額を伝うガラスの冷気に心が鎮まっていく。今夜は早く帰って蒔名と風呂でも入ろう。
会社につくなり、愛ちゃん一瞬いい? と郷田さんに呼ばれた。
「さっき電話したんだけど……朝から悪いな」
「すみません、電車混んでて」慌ててスマホを取り出すと、確かに『ゴーダ副編集長』と着信が残っていた。
「これ、今朝印刷所から上がってきてさ。参っちまったよ」
郷田さんは昨日から同じ服装だが、私の職場は出版社だ。校了間近の月末、一日や二日の徹夜作業はさして珍しいことではない。
「うわダメだ。マズいですねこれ」
瞬間、二の腕が粟立った。副編集長から受け取った紙束は、ティーン向けファッション誌の特集ページ――男女モデルの一週間着回しコーデ企画。郷田さんが脂ぎった髪の毛を掻いた。
「みーちゃん!」私はゲラに目を落としたまま部下の名前を呼ぶ。
「はあい」
副編集長がそそくさと退散し、代わりに若い女性社員がふわふわとやって来た。彼女の右手にはスタバのカップが汗をかいており、状況をまったく理解できていないことがうかがえる。
「ちょっとこれ、どうなってんのよ」
確認、あなたに任せたよね? と紙上のモデルを叩いてみーちゃんに詰め寄る。ようやく事態を察した彼女は神妙な顔つきをしてみせるものの、上司が何に怒髪天かまでは頭が回らないらしい。
「はあ」間延びした返事に怒りが決壊する。
「これよこれ! モデルが! イヤフォンしながら自転車漕いでるでしょーが! 思いっきり公道よねここ、こんなの載せられるわけないでしょっ!」
朝イチの雷にみーちゃんの瞳がみるみる潤んでいくが、無論そんなことに構っている場合ではない。
「道交法改正されたから注意しなって先月も言ったよね? わかんないならなんで聞かないの!?」
「ご、ごめんなさい……ずずぅー」
「コーヒー飲んでんじゃないわよ!」
「ふぐぅ」
涙をこぼすみーちゃんに脳内で百回舌打ちする。泣きたいのはこっちだっつーの。この調子では夜の打ち合わせも彼女ひとりに任せるわけにはいかない。
「ったく、あなた撮影立ち会ってたんでしょうが……」