あの日、「いいところがあるんだ」と言って私を連れ出し、初めてここへ連れてきてくれた。そして、正式に交際が始まった。お喋りの好きな夫だが、その日は特にたくさん話した。夫の両親は、夫が高校三年生になった春に事故で亡くなられたという事も、その日に夫が話してくれた。幸い、ご両親の生命保険と遺産のおかげで、夫はどうにか東京の大学へ進学し、そして私と出会った。
今、夫もきっと懐かしんでいるのだろう。少し微笑みながら「ただいま」と小声で呟き扉を開けた。来る途中のスーパーで購入したワインとチーズ、いくつかの食材をテーブルに置き、ひとしきり掃除をした後で、続いて料理を始めた。毎年の恒例行事、いつもと同じだ。毎年この日は夫が手料理を振る舞ってくれる。初めて来たあの日もそうだった。
いつしか私は、自分が死んでいる事も忘れて夫の背中を眺めながら幸せを噛み締めていた。この人と結婚して良かった。心からそう思う。
やがて料理が出来上がり、テーブルクロスの上に並べていく。ちゃんと二人分、用意してある料理を見たら、私は次第に切なくなり、どうして死んでしまったのかと自分を責めた。こんなに愛している夫を残して死んでしまった事が、何より辛かった。
「こんなに早く死んじゃって、ごめんね」
自然と言葉がこぼれたその時、夫が呟いた。
「気にするなよ。むしろ俺が先に死んだりしなくて、よかったと思ってるよ」
私は驚き、まさか私がここに居ることに気付いているのだろうかと、夫に話し掛けた。
「怒ってない?」「怒るもんか」「いつから気付いてたの?」「猫が来た日。あの猫さ、俺に言うんだよ。『奥さん、そばに居るけど、今は気づかないふりしなきゃダメだよ。話し掛けたら、すぐ天国にいっちゃうよ』ってね。」
猫が喋る?そんなまさか。
「俺も驚いたけどね。でも確かにキミの気配を感じるし、声も聞こえるから。ただ残念だけど、姿は見えないんだ」
「どうして、今日は話し掛けてくれたの?」
「特別な日だからね。今日は、交際開始記念日であり、プロポーズ記念日であり、結婚記念日であり、そして、キミが天国に旅立つ日だ」
私は涙が止まらなかった。いや、実体が無いのだから、涙など出ていないのだろうが私は泣いていた。天国からのお迎えがなかなか来なかったのは、こういう事だったのか。死んでから今日までの時間には、意味があったのだ。あの猫は、天の使いなのだろうか。
最後の晩餐、私は食べられないが、テーブルに向かい合って夫と一緒にたくさん話しをした。夫は久しぶりのワインで良い気分になっているようで、そんな夫を見ているのも嬉しかった。しかしそれも今日で最後なのだ。私は寂しくなり、無言になってしまった。
夫が心配して「・・・なあ、まだ居るのかい?行く時にはちゃんと教えてくれよな」そう言いながら、夫も涙を流している。
夫には、二度も別れを味あわせてしまう事になる。
「ごめんなさい・・・」
その一言で私の気持ちが通じたようだ。
「死んだと思ったキミに、また会えた。それだけでもう、充分さ。前のように廃人みたいにはならないから、心配しないで。どうもありがとう、俺と結婚してくれて」
「私も、幸せだった。本当にありがとう。病気しないでね。体に気を付けて。」
どうしてもっと気の利いた言葉が出てこないのか。普段から「必要以上の不毛な気遣い」をしておくのだった。そんな気持ちも夫は全て見透かしている。一瞬笑顔になって「キミの気持ち、ちゃんと分かってるから。キミらしくいてくれればいいよ。必要以上の気遣いをしないのは、相手に気を遣わせない為のキミの優しさだ。心配しないで。」