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『ボロ家とせっけん』村崎えん


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 便所を怖がる私のためなのか、ある日、母がスーパーで消臭剤を買ってきた。
 消臭剤とかは、貧乏な我が家にとっては贅沢品と言っていい部類だと思う。生活必需品、ではないから。
 母の買ってきた消臭剤で、便所はせっけんの匂いで満たされた。怖かったはずの明かりの具合も、目地の黒ずみも、せっけんの匂いがするってだけで随分と気にならなくなった。狭く気味の悪い便所でも、息を吸ってみようかという気になってくるから不思議だ。
 母はせっけんの匂いが好きだった。風呂で使う固形せっけんの、包装紙をクンクンと嗅いでいる姿をよく見かけた。何してるのって訊いたら、「幸せの匂いだよ」って嗅がせてくれた。便所と同じ匂いだった。台所に立つ母に後ろから抱きつくと、母の着ているヨレヨレのエプロンからも同じ匂いがした。母の匂いだと思っていたそれが、せっけんの匂いだったんだって初めて気がついた。友達の立派な家からはその匂いはしなかった。うちはボロ家だったけど、母が言う「幸せの匂い」がいつも、どこからでもしていた。

 
 高校を卒業した後に就職して一人暮らしを始めた。実家から電車で一時間くらいの知らない街で、ワンルームのアパートを借りた。引っ越しは母と弟が手伝ってくれた。
 いつからだろう、父が帰ってこなかった理由が、「道路の白い線」じゃないってことを知らぬ間に私は理解していた。母から聞いたのか、弟からだったか、思い出せないんだけどなぜか知っていた。父は別に女ができたって、それだけの理由だった。
 その事実を頭では理解していたはずだけど、父のことを考えるときはいつも、ある姿が思い浮かんだ。顔なんかぼんやりとしか思い出せないくせに、やけにはっきりとした情景。薄いブルーの作業着で、外国の知らない街の大きな道路に白線を引く、父の背中だ。見たこともない場面なのに、それがくっきりと頭に浮かぶ。女を作って出ていった父を、だから私は恨んでいない。呑気な話だが、私の中で父は今でも、私がきっとずっと行くこともない外国の街で、道路に白線を引いているのだ。母があのときそう言ったから、もうそれでいいと思うのだ。
 私が借りたアパートの部屋を見て、母は「いい部屋だね」と言った。ごく普通の、ありふれたワンルームのどこを見て「いい部屋だ」と言ったのかはわからなかったけど、私も「そうでしょ」と答えた。白い壁、ギイギイいわない扉とフローリングの床、ピカピカの風呂場と洋式トイレ。そりゃあ、実家のボロ家とは全然違う。だから「いい部屋」だけど、そんな「いい部屋」に住めるんだけど、私の中にあるどうしようもないくらいの強烈な違和感は、果たして消えてくれるのか、それが不安だった。
 学校がある弟は実家に帰り、母はアパートに一泊した。いつの間に買い物に行っていたのか、一口コンロしかない狭いキッチンで、母はたくさんおかずを作ってタッパーに詰め、冷蔵庫に入れてくれた。ありがとう、という言葉が口をついて出て、しかし実家にいたころは、台所に立つ母に礼を言ったことなんてなかったということに気がついた。家を出たってだけだと思っていたけど、何かが変わっていくっていうのは、こういう、ちょっとしたことからなのかもしれないって思った。変わるってことには、いいことも悪いこともあるかもしれない。だけど人はどんどん変わって、それで生きていくんだなって、そんな、今まで考えたこともなかったことを、母の背中を見ながら思った。
 翌日の夕方まで、母は残って引っ越しの片付けを手伝ってくれた。暗くなる前に、母を帰らせなければと思っていた。暗くなってしまったら、もう一晩いて欲しいと言ってしまいそうな自分に気づいていたから。
 駅までの道を二人で歩いた。改札を入っても、母は何度もふり返って手を振った。はいはいって感じで私も手を振ったけど、喉の奥が痛くてしょうがなかった。
 ひとりで来た道を戻り、アパートの部屋に帰ってくる。人の家にお邪魔している感覚が抜けなくてソワソワした。鍵を差し込みドアノブを握る。扉の重みが手に伝わって、ガッチャン、って音がする。扉が開くと、目の前には、さっきまでは母がいたワンルーム。一歩足を踏み入れて、違う、と思う。
 母がいなくなった途端、匂いがしなくなった。せっけんの匂い。母の匂い。ずっと当たり前にあったから、気がつかなかった。もう、ここにいるのは私だけなんだと猛烈に実感した。

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