章太郎が玄関を上がると幸江は章太郎と自分の靴を下駄箱に入れて、居間へ向かった。
腰を庇うように座り込んで物を取った仕草に在りし日の母が重なった。
居間の卓にはコンビニ弁当の空箱やカップ麺の容器の空が散乱している。
「ちゃんと片付けないとダメじゃない」
幸江は甲斐甲斐しく、掃除を始めた。
浩一は言葉を出せぬまま、幸江を横目で見て満足げな章太郎と向かい合って座っている。
「説明してくれよ」
浩一が章太郎に問うた。
幸江は台所で新品の布巾を絞っている。
その布巾は迷うことなく棚の奥から取り出していた。
初めてやって来た家で分かるはずの無いような場所からであった。
本当に母親かもしれないというポジティブな疑念が頭によぎる。そうすると卓を拭き始めたその横顔に面影があるような気がしてしまった。
突然、幸江が機敏な動作で布巾を持ったまま手を叩いた。
叩いた手を広げて確認をし、浩一に見せた。
幸江の滑らかな手のひらで蚊が平たくなっていた。
「蚊、まだ血吸ってない」
母もそうやっていちいち見せていたことを思い出した。
台所に向かう幸江。
それを嬉しそうに目で追いながら章太郎は口を開いた。
「お母さんだよ」
「バカかよ」
間髪入れずに一刀両断されたと思いきや、余裕綽々で章太郎は舌を鳴らしながら、人差し指だけを立てて左右に振った。
「連れて来たんだよ。俺さ、お母さんをお墓に入れた時、本当に死んじまったって初めて思った。それまでは信じられなかったと言うか、信じたくなかったんだろうな。大ショックで、生きている目的がなくなったとも思った。仕事もリタイアしているしな。でもそうしたら夢にお母さんが出てきて言ったんだよ。伝え忘れたことあるから、ちょっと来てくれないかって」
「何だそれ?夢に見たこと信じて行ったのか?しかも誰にも言わずに」
「そりゃ悪かったよ。つい慌てちゃってさ。だって、ここしかないって場所を思い出したんだよ。京都の六道珍皇寺って知ってるか?」
髪を揺らして首を横に振る浩一。
「そこにあの世に繋がっている井戸があるんだよ。新婚旅行の思い出の場所なんだよ。井戸見た後、母さんと祇園で食べた黒蜜の葛切り。甘かったなぁ。俺たちみたいに」
章太郎は遠い目をし、思い出に浸っている。
「ハネムーンであの世の入り口見に行ったのか」
幸江が台所で洗い物を始め、水を流す音が断続的に聞こえてくる。
マメに出したり止めたりするのは節水のためと幸江が言っていたのを浩一は覚えている。
「それで井戸を通って、あの世に行って来たとか言うなよ」
章太郎が口笛を鳴らし、浩一を指差した。
「正解」
「バカかよ」