7月期優秀作品
『ただいま』室市雅則
「ただいま」
ごく当たり前のように柳田章太郎は自宅玄関を開けた。
三和土に立ち、室内の様子を窺う。
五分刈りの白髪頭が月明かりで光っている。
二階からドアが開く音が聞こえ、慌てて階段を駆け下りる足音が響いてきた。
章太郎の息子の浩一が長い髪を振り乱し、目を見開いて立ちすくんでいる。
「お、ただいま」
章太郎は決まりが悪いのか目を合わせずに言った。
「『ただいま』じゃねーよ」
浩一の言い分はもっともであった。
何故なら、章太郎は約三ヶ月前に姿をくらましていたのだ。
章太郎が姿を消す少し前、章太郎の妻であり、浩一の母である幸江が他界した。
あまりにも突然で二人が事実として受け入れる間も無く四十九日の法要まで一気に時間が経った。
納骨を終え、とうとう実感が湧きそうな翌日、章太郎は『ちょっと行ってきます』とだけ商店街のセールの黄色いチラシの裏に書き残して、姿を消した。
浩一は警察に届け出たが、その行方は杳として知れず、今日に至った。
章太郎は誤魔化すように紙袋を差し出した。
「ほら、土産」
浩一が受け取り、中を覗くとチョコ味の『生八つ橋』が一箱入っていた。
「京都?」
「定番で分かり易いだろ。でも、次は驚くぞ」
満面の笑みを浮かべ章太郎は振り向き、玄関を開けた。
何事かと浩一は玄関を凝視した。
蚊が一匹入り込んだのが分かった。
レトロな水色のワンピースを着た若い女が姿を現し、浩一に手を振った。
浩一には縁もゆかりもない二十歳くらいの女が手を振っている。
「どちらさま?」
浩一が尋ねると恥ずかしそうに章太郎は頭を掻いた。
「幸江。お母さん」
若い女が微笑んだ。
「ただいま。浩一」
浩一は全く状況が飲み込めなかった。名前を呼ばれるのはギリギリ理解できるとして、初対面の人間に『ただいま』と言われことがなかった。考えあぐねていると、『母』と紹介された幸江の左手の薬指で指輪が光っていることに気が付いた。
しかも、それは亡き幸江の物だった。
「何考えてんだよ。再婚?こんな若い子と?しかも同じ名前?」
問い詰める浩一。それを制するように章太郎は掌を地面に水平にし、余裕たっぷりで上下に動かした。
「まあまあ、話が長くなるから上がるぞ」