「お庭に、レモングラスが生えてるよ。麻子さんが、レモングラスのお茶は鎮痛に使えるって言ってた」
また少しだけ込み上げてきた涙を隠すように、私は努めて何でもない話のように言った。お兄ちゃんもそれを解ったのか「ノートでな」と茶化してくれた。
「じゃあ、助けてもらおうかな。麻子さんに」
「そのお茶作るの私なんだから、麻子さんと、燈子に、でしょ」
「ああ、そうだな」
私はお兄ちゃんの膝にちょっとだけ触れた。実は事故以来、一度も直に触れたことがなかった。切れたり縫ったりした跡だろうか、滑らかであるべき肌が歪に盛り上がって、ちょっとごつごつしている。触るな、とは言われないようなので、ぺたりと手のひらを置いてみる。
「梅雨から、逃げられればいいのかな」
ぽつりとこぼした言葉に、お兄ちゃんは苦笑した。
「残念ながら、全国各地梅雨入り宣言済みだぞ」
「じゃあ、どこか一か所でも梅雨明け宣言したら、そこに旅行に行こう」
ほんの少しだけ、最後わずかに声が震えた。夢の中のどれも現実の数か月前とは違うものだったが、押しつぶされそうな恐怖だけは同じだった。
「一番最初ってどこだ?」
「どこだっていいよ。梅雨から逃げて、雨を避けて、有田焼より九谷焼より遠いところの焼き物買って……ごはん作って、食べよ」
生まれてこの方、一度も離れなかったお兄ちゃんを、きっといつか失う。
真っ白な紙に黒が滲んでいくように自覚したその恐怖を、私はこれからいつか来るその日まで、ずっと抱えて生きていく。無くなりはしないから、せめて滲んだ範囲が広がらないように。押しつぶされて間違わないように。
「じゃあ、ここが梅雨明けして帰ってきたら、念願のリフォームを一緒にしよう。それで、麻子さんのノートに書き足していこう」
まずは私たちの名前からね、と言うとお兄ちゃんが笑ったので、私はトマトの実が膨らみ始めていることを、そっと教えてあげた。