朝。電車に詰め込まれた人々はドア口ギリギリのところで、片腕を天に伸ばし、身体をくねらせ、苦悶の表情を浮かべながら制止していた。芸術的なポーズはドアという枠に収められたイタリアの立体壁画のようだが、当人たちは気が気ではない。一刻も早くドアが閉まらなければはじき出される、早く、早く!という彼らの思惑とは裏腹に、ドアは荷物が引っかかっているのか、何度も開閉を繰り返す。それがようやく閉まると、ドアガラスは一気に曇る。金切り声にも似た空気音が響き、のそり、のそりと電車は動き出す。
私はドアを背にして、真正面と左右に人々と温もりを押し付け合いながらじっと立っていた。満員の車内には息苦しさが煮えたち、時間が立つのが恐ろしく長く感じられた。次の駅もその次の駅もこちら側のドアが開くことはなく、乗客は加算されつづけ、私が押しつぶされるのも時間の問題だった。ふと、何かが私の腕を突いた。横を見ると、サラリーマン風の男のスマートフォンを操作していた。肘が触れていることに気づかないのだろうか。私は軽く咳払いをした。男は顔を私に向けたが、視線はすぐ手元に戻った。私は溜息をつき、何がそんなに面白いのかと男のスマートフォンを覗いた。中にいたのは無数の小さな毒虫だった。液晶画面の中でうぞうぞと動き、男のスクロールする指に群れては離れ、離れては群れる。男は無表情である。首を固定したまま、目の玉だけを機械的に上下させて虫達の動きを追っていた。
私はまた溜息をついた。虫と戯れる人々は今日び珍しい光景ではない。やがて画面に収まりきれなかった虫は溢れ、男の指を伝って肘をうねうねと這い、何匹かが私の方に向かった。男が小刻みに震えるたびに虫は増えていった。虫を退ける余裕のない私は、眉間に皺を寄せながら目を閉じた。次の駅でこちら側のドアが開くというアナウンスがある。私は足の指に力を入れる。駅に電車が止まる。私達は大きな力に押され、外へと吐き出された。きゃあ、うわ、という悲鳴がどこかから上がった。鞄が転がり、人も転がったが、気に止める者はあまりいない。
電車が再び人を吸い込むとき、私は車内の奥へ進み、座席前に立った。誰か席を立たないだろうか、と一様に眠りこけた人々を見下ろしながら思う。ただ一人、眠っていない人がいた。若いOL風の女性である。黒い髪をジャケットにゆるやかに落とし、品のいい微笑を浮かべている。女性はバッグから弁当包みを取り出し、まるで宝物を開けるように、ゆっくりと包みを解いていく。現れたのは5、6切れのサンドウィッチ。女は真っ赤な唇をゆるりと歪め、うち1つをつまんだ。私は嫌な予感がした。