小説

『紡ぎ虫の糸はし』石橋直子(『蜘蛛の糸』)

 草木には雨滴が光り、濡れた土の匂いが漂う午後でした。灰色の雲は流れてしまい、弱い日差しと生ぬるい空気が、だれもを惰眠へと誘いました。それは、透き通る糸の上で揺れる彼女についても同じ事でした。
 足先にかすかな震えを感じ、蜘蛛は目を覚ましました。その振動はいつまでたっても断続的に伝わってきて、獲物がもはやどこにもいけないほどに絡め取られてしまったことを教えてくれました。そこで彼女はゆっくりと、遅い昼食のもとへ向かうことにしたのでした。
 そこにいたのは、頭の大きなギンヤンマでした。
「なあ、助けてくれよ。」
 それは震える声で、たどたどしく、しかし早口で言いました。
「さっきまるまるとした蝶を見たんだ。日が暮れる前にここを通るだろう。なあ、そいつに……」
 蜘蛛は最後まで聞かずに牙を突き立てました。とても不愉快になったのです。瞬間、ギンヤンマの首は跳ね上がり、ギっとかすれたような音がしました。目が一層大きくなって、複眼全てが自分へと注がれているような気がしました。蜘蛛はスピーディーに食事をとらなかったことを悔やみました。陽気が脚と判断を鈍らせたんだわ。だから餌に言葉を与えてしまったんだわ。そして私の昼食が醜くまずいものになってしまったんだわ。こうなると自分を取り巻く全ての穏やかさが苦々しく感じられ、蜘蛛はかぶりをふりました。
 しばらくして、重そうな体をぐらつかせながら、ちょうちょがやってきました。かわいそうに。蜘蛛はそう思いました。醜いとんぼに売られたこと、それでいて蜘蛛の食指にふれないこと、なにもかも知らないこと。ちょうちょはかわいそうで、かわいそうで、蜘蛛はさびしくなりました。
 それからというもの、蜘蛛は、餌の言葉を聞かないことにしました。何度も、寝て、起きて、食べて、寝て、起きて、食べて。惰性のようなその繰り返しの中に、とんぼの記憶は埋没していきました。

 ある朝、蜘蛛は自分が動けなくなっていることに気づきました。群青色の空を仰ぎ見て、そこへ行く日が来たのだと感じ取った蜘蛛は、目に注いでいた意識をそっと解きました。彼女の世界が仄暗くなりました。まぶたをもたない蜘蛛ですが、眠るときにはこうして外界と自分とを遮断していたのでした。その旅立ちは、眠りのように訪れたのでした。暖かくも、寒くもありませんでした。おなかも減ってはいませんでしたが、喉だけはひどく渇いていました。そのままどのくらいがたったのでしょう。静かにこの時を迎えられたことに満足しながら、彼女は、最後に大きく息をつきました。

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